霧の涙 第十五話「役割 -downpour-」
「リタなんか、生まれてこなければよかったのに!」
ラクリマのその言葉と、憎悪に満ちた表情はリタの記憶の中でもひどく印象に残っていた。ラクリマが人を憎む言葉を吐くのを聞いたのはこれが初めてな上、ラクリマが憎む相手は他ならぬリタだった。何故リタを憎むのか、何故リタの首を絞めようとするのかまるで分からなかったが、その圧倒的な憎悪にリタの心はひどく痛み、瞳から涙がこぼれた。
ラクリマはリタの首を絞める手を徐々に強めたが、リタは抵抗することなく涙を流していた。数少ない心の拠り所であったラクリマからこれほどの憎悪を抱かれていたのだと知ると、抵抗してまで生きる意味は無いように思えた。リタの心にあるのは、ただただ深い悲しみだけだった。
このままラクリマに絞殺されてしまうのだろうな、とまともに呼吸ができない中で思ったが、不意にラクリマの手が緩み、リタの首元から離れた。
「…………?」
不思議に思ったリタが涙をぬぐって見ると、いつの間にか自分達の周囲を黒い霧が取り囲んでいた。外の状況が全く見えない程の濃い霧の壁の中で、リタとラクリマの二人はただ立ちつくしていた。
「お、お姉ちゃん……」
訳の分からない状況にリタは思わず姉に助けを求めたが、その瞬間に黒い霧が姉の体を包み込み、まるで魔術のように姉の姿をかき消した。悲鳴を上げる間もなく黒い霧はリタをも包み込み、視界を黒く埋め尽くしていった。霧に完全に視界を遮られる直前、人の形に似た黒いもやのようなものが糸を引いて床をすり抜けるのが見えたが、リタがその意味を理解する前に目の前が真っ暗になった。
* * *
ふっと目を開けると、レンガ造りの天井が見えた。お世辞にもきれいとは言えない天井は今まで見てきた夢とは違い、妙に現実味があった。
これが「過去」のものなのかどうか判断に迷ったが、ふと横を見るとベッドにもたれかけるようにしてカイゼルが床に座っていた。難しそうな本に目を通すその姿は限りなく「現在」に近く、リタがベッドから身を起こすとその動きを感じてかカイゼルは振り向いてリタを見た。
「おはようございます」
薄く笑顔を浮かべるカイゼルの顔を見て、リタは自分が現在に戻ってきたのだと実感した。
「カイゼル……ここは?」
辺りを見回すと、どうやらここは宿屋の一室らしい。しかしあちこちに埃がたまっており、人の気配も感じられない。宿屋と言うより、元々は宿屋だった建物、と言った方が近いかもしれない。
「ここは、リタ君の故郷ですよ。と言っても、この宿屋は町の入り口近くにある安宿ですから、リタ君が訪れた事は無いと思います」
「私の……故郷……?」
ふと窓の外に目をやると、確かに見慣れた町並みがそこにあった。リタはベッドから立ち上がり、窓に手をついて外の景色を眺めた。町の入口付近は殆ど行った事は無かったが、並ぶ家々や舗装された石畳の様子は間違いなくリタの故郷のそれだった。
懐かしい――と思うと同時にリタは疑問を覚えた。町の入口ならば人の往来があるはずなのに、人が一人も見当たらない。町の住民たちの生きた気配が、感じられない。
「……その様子だと、まだ全てを思い出してはいないようですね」
振り向くと、真後ろにカイゼルが立っていた。いつものように微笑みを浮かべているが、その微笑みには温かみが一つも感じられなかった。見てはならないものを見てしまったような気分になり、リタは再び窓の外に目を向けた。天気は悪く、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。
「全てって……何……?」
「逆にリタ君にお聞きしますが、君はどこまで思い出しましたか?」
リタが最後に「見た」光景はラクリマの憎悪を目の当たりにし、黒い霧に包まれた時のことだ。正直にその事を話すと、カイゼルは「やはりそうですか」と小さくため息を吐いた。
「黒い霧に包まれてから、君が村で暮らすことになるまでの間の事はまだ思い出そうとしないのですね」
「思い出そうとしない?」
リタは背筋がひやりとしたが、その冷たさがどこから来るのか分からなかった。窓の外で降る雨は、少しずつ強さを増していた。
「記憶は全て君の中に戻っています。なのに知らないということは、思い出そうとしていないからでしょう?」
「……カイゼル……?」
空がじわじわと暗くなり、窓ガラスにカイゼルの微笑が映った。笑っているのに、泣いているような顔をしていた。
「君がそうやって思い出そうとしないなら、僕が教えて差し上げます」
ざあざあと、雨が強く音を立てはじめた。
「リタ君の「霧」を出す力、君はその力を完璧に把握していますか?」
カイゼルの問いにリタは目を伏せた。数えるほどしか力を使っていないのに、完璧に把握するなんて出来ない。
「シャグラで君は霧を出して亡霊を退治しましたね」
「……うん」
「オーロ君とネーロ君、ジョーカー君も能力を使えば亡霊を退ける事は出来ます。ただしそれは一時的なもので、いずれどこかで亡霊は復活します」
ここまでは分かりますね、とカイゼルが念を押してきたのでリタは頷いた。
「リタ君の霧は、彼らとは違う特殊な力を秘めています」
「特殊な……力……?」
窓ガラスに映るカイゼルから目を逸らし、外の風景に目を遣った。本格的に降り出した雨は窓ガラスを叩き、誰もいない町を洗い流していく。
「触れた者の肉体を奪って亡霊化させ、亡霊に触れた場合はそれを食らって己の力とする。それが君の霧の能力です」
うるさいほどの雨の中でも、カイゼルの言葉ははっきりとリタの耳に届いた。
「……これが何を意味するのか、分かりますか?」
「…………」
はっきりとは分からない。しかし、もやもやとした嫌な予感が体中を駆け巡る。
「僕と君が村で再会して、その時話した事を思い出してみなさい」
リタは言われるがままに話した事を思い出し始めた。少し前の事なのに、何年も前の事のように感じられた。
――死者の魂が縛られて、肉体に宿ることができないでいる。
――そうです。リタ君が見た黒いもやは、転生できなくなった死者の魂です。
――亡霊には、共食いをする習性があるんです。
――多くの、本当に多くの亡霊を吸収した個体は、人間と全く同じ姿を取り、人間と全く同じ振る舞いを見せるようになります。
「……あ……」
あの日、リタとラクリマを覆った黒い霧。あの時は何が起こっていたのか分からなかった。いや、分かりたくなかった。本能的な部分では、黒い霧が何をしたのか分かっていた。ただ理性が、それを頑なに認めなかった。
「……あの時リタ君とラクリマ君を包み込んだ黒い霧は、紛れもなくリタ君が生み出した黒い霧です」
遠くで雷雲が光る。その光に照らされたカイゼルは、リタの語彙では説明できない複雑な表情をしていた。
「今の君は、自らが生み出した黒い霧に呑まれ、数多の亡霊を吸収した結果生まれた「限りなく人間に近い亡霊」です」
雷鳴が、響き渡った。
「……そ、そんな……」
「あの日リタ君が生み出した霧は町中に広がり、人々から肉体と魂を奪うことで、君は亡霊でありながら人間と見分けがつかない程の体を手に入れたんですよ」
無意識のうちに胸に手を当てた。どくどくと心臓が脈打っているのが感じられたのだが、これも町の人々の犠牲の上に成り立った偽物の鼓動なのだろうか。
「リタ君の霧に包まれた町で、生き残ったのは僕だけでしょうね……ラクリマ君も生き残ったと言えば生き残ったんですが、彼女は亡霊となった直後にこの町を離れ、リタ君の霧から逃れたと思われます」
「お姉……ちゃん……?」
リタとラクリマの二人が黒い霧に包まれた時、ラクリマが消えた後に黒いもやが糸を引いて床をすり抜けるのを、リタは見ていた。あれが、ラクリマだと言うのか。
「ラクリマ君は恐らく「糸」を操る能力に目覚めています。リタ君への憎悪が高まった時に覚醒したんでしょう」
「……糸……?」
「魂が転生できないように繋ぎ止める糸ですよ。リタ君にも恐らく……いえ、確実に糸は付いてますよ」
そう言われてリタはちらりと足元に目をやったが、糸のようなものは見えないし感じられもしなかった。本当だろうか、とリタが疑問に思う前にカイゼルが「でないと、二人が黒い霧に包まれた時見えたものの説明が付きません」と付け足した。
「……それで、リタ君は亡霊として復活したわけですが……僕が保護してからの君は、眠り続けていました」
「眠り続けてた?」
リタが記憶を取り戻した際にオーロが言った「今度は起きろよ」の言葉が蘇ってきた。
「君は、自分が多くの命を奪ってのうのうと蘇った事を認めたくないんでしょうね。亡霊となってからの君はほとんど眠っていましたし、たまに起きても何も見ていないし、何も聞いていないようでした」
「……そう、だったんだ……」
「だから僕は、オーロ君とネーロ君にリタ君の記憶を刈り取るよう頼んだんですよ」
多くの命を奪った亡霊である、という事実を忘れてさえしまえばリタは元の内気な少女に戻る。カイゼルはそう考え、実際に記憶を刈ってみると確かにリタは目覚め、カイゼルがよく知る「リタ」に戻った。
「それからは、リタ君には辺境の村に住んでもらって……それで、今に至ります」
カイゼルがリタの頭を撫でてきたが、その手はひどく冷たかった。
* * *
「……どうして、村に住ませて、改めて「初対面」になって、そのままあちこち連れて行ったの?」
カイゼルの手をそっと払いのけ、リタはカイゼルと向かい合った。
「……それは、君が自分の記憶に耐えられる程成長させるため、ですね」
すぐに記憶を返しても、あの時のリタのままなら記憶に耐えきれずに再び眠り続けることになる。それを避けるためには、リタを精神的に成長させる必要があった。村で一人暮らしをさせたのは、自活を通じてリタが成長するのを期待してのことだった。
「本当なら、村でリタ君一人で成長してほしかったんですが……ラクリマ君が亡霊を率いて活動しはじめたので、そうもいかなくなりました」
「……お姉ちゃん、が?」
「最初は半信半疑だったんですけどね。ラクリマ君が糸を用いて亡霊を人里まで導き、襲わせているんですよ」
あの時リタの霧から逃げおおせたラクリマは、多くの亡霊を吸収してリタと同様の「限りなく人間に近い亡霊」となり、人々を襲っているのだとカイゼルは言った。リタはその言葉が信じられなかったが、カイゼルの顔は嘘を言っている顔ではなかった。
「リタ君だけは、失う訳にはいかない。だから僕はまだ未熟だった君の前に「初対面」として現れたんですよ」
「…………」
納得がいくようないかないような微妙な面持ちでいると、カイゼルはリタの頭を再び撫でてきた。
「君に……少し、いえ、かなり辛い話になると思いますが……」
カイゼルがリタの目を見ようとしてきたが、リタは反射的に目を逸らした。初めてであった時からカイゼルの事は信頼していたのだが、何故か今はカイゼルの言葉を心の底から信じる気になれなかった。
「……僕が、何の為に旅をしているのか覚えていますか?」
「……亡霊を、なんとかするため」
カイゼルの質問には正直に答えているが、何となく、カイゼルとの会話が苦しい。
「そうです。正確に言えば、この事態を引き起こした原因である人物……ラクリマ君を討つためです」
糸を操る張本人を倒せば確かにこの亡霊がはびこる事態を解決できる。それが一番の策なのは分かるが、かつて好意を抱いていた相手を事もなげに「討つ」と言えるカイゼルの心の内が分からない。戸惑いを隠せないリタに対し、カイゼルはさらに追い打ちをかける。
「ラクリマ君……つまり、亡霊は僕達の手では倒すことはできません」
その言葉が意味するところを察して、リタは目を見開いた。そんなリタの様子を見ても、カイゼルはさらに言葉を続ける。
「亡霊を吸収する力を持つリタ君にしか、ラクリマ君を討つ事は出来ないんです」
カイゼルはリタの両肩に手を乗せようとしたが、リタは反射的にその手を払いのけた。
「私に……お姉ちゃんを殺せって言うの……?」
カイゼルは何も言わず、ただ払いのけられた手を胸の前で重ねて悲しげな微笑を浮かべるだけだった。
「色んな事を隠して……嘘をついて……私に、お姉ちゃんを殺させようとして……」
リタの目から自然に涙がこぼれた。胸が苦しい。痛い。
「お姉ちゃんを殺したら……私も、いなくなっちゃうんだよね……?」
ラクリマの「糸」が失われれば亡霊が不当に縛りつけられる事は無くなり、元の転生のサイクルに戻る。もしそうなれば亡霊であるリタが消えてしまう事は自明の理だった。
「リタ君」
「来ないで!」
カイゼルが何か言おうとしたが、リタはその前にカイゼルを突き飛ばして部屋を飛び出した。これ以上カイゼルの言葉を聞くと、今まで築いてきたものが壊されるような、そんな気がした。
* * *
外はバケツをひっくり返したかのような土砂降りだった。空はごろごろと音を立て、時折雷が落ちている。その中をリタはがむしゃらに走っていた。全身があっという間にずぶ濡れになったが、そんなことはいささかも気にならない。
走りながら見た町並みはどれもが見覚えのあるものだったが、リタの記憶の中の町並みはもっと活気にあふれて人の姿があった。こんな、生き物の気配がない寂しい町並みではなかった。
息を切らせて走っているうちに、町並みは凝った意匠が施された家々が並ぶようになっていた。富裕層向けの区画に来たのだな、と思うと同時に前方にある十字路に気が付いた。リタは走ることを止めずに十字路に向かい、角を曲がった。さらに少し進むと、いつもマカロンを買っていた老舗の高級菓子店があった。店内にあるショーケースに並ぶお菓子の数々はリタの記憶にあったものと殆ど変りは無いが、ライトで照らされていない、埃を被った様子を見ていると胸がずきずきと痛くなった。
「私……私が……!」
この町から命を奪い、抜け殻にしたのは他ならぬリタだ。切れたライトが、埃を被った菓子の数々が、無言でリタを責め立てる。リタは再び走り出し、足は無意識のうちに家に向かっていた。
かつてリタが暮らしていた家は、変わらずそこに建っていた。ツタが塀に絡みつき、庭は雑草が生え渡り荒れているが、それでもリタは家が懐かしいと思った。
開きっぱなしの門扉をくぐって玄関に向かうと、そこには一人の男が立っていた。男はリタに気付くと人畜無害な微笑を浮かべて軽く手を振った。
「リタちゃんじゃないか。思ったより早かったね」
初対面なのに妙に馴れ馴れしい男の態度にリタは警戒心を抱いたが、悪人には見えなかったのでそろそろと男に近づいて行った。
「……あなたは……?」
「ああ、ごめん。自己紹介がまだだったね。俺はヴェキア。ラクリマさんの手下、かな」
「……お姉ちゃん、の?」
リタは首を傾げていたが、ヴェキアはそれ以上の説明はせずに玄関の扉を開けた。
「早く入った方が良いよ。ずうっとそんなところに突っ立ってたら風邪ひいちゃうよ?」
ヴェキアに促され、リタは警戒しながらも玄関の扉をくぐった。広いロビーはリタの記憶そのままで、この家だけは他と違ってきちんと手入れがされていた。
「懐かしい?」
背後からヴェキアがそっと呟き、リタは反射的に頷いた。ヴェキアはするりとリタの横を抜け「こっちにおいで」とリタの手を取って応接間へ連れて行った。
応接間にはラクリマとアピーナの姿があった。ラクリマは暖炉の火をじっと見つめており、アピーナはその横で静かに佇んでいたが、リタに気付くとさっとタオルを取り出して近づき、
「早く拭かないとお体に障りますわ」
とリタの体を拭き始めた。リタはもぞもぞと抵抗したが、アピーナの手つきには敵意は大よそ感じられず、そのうち抵抗するのをやめて大人しく体を拭かれていた。
「……お姉ちゃん……」
そっとラクリマに呼びかけると、ラクリマは暖炉の火から目を離してリタに目を移した。ラクリマの表情は穏やかで優しく、リタの記憶にある「ラクリマ」よりも随分大人びて見えた。
「リタ、久しぶりね」
ラクリマはゆっくりと立ち上がり、そっと首をかしげて笑った。先程見たカイゼルの微笑とは違う、温かさに満ちた微笑にリタは心が少し温かくなったのを感じた。
体を拭き終わり、アピーナが数歩下がったのを見てリタはラクリマの元に駆け寄った。リタは何も言葉が出なかったが、ラクリマはそっとリタの頭を撫でた。
「……辛い事を知ったのね。顔を見れば分かるわ」
「お姉……ちゃん……」
悲しくもないのに、ぼろぼろと涙がこぼれた。ラクリマの微笑は、混乱しきったリタの心にしみた。
「もう、大丈夫よ。私がリタを守ってあげる」
ラクリマはリタを抱きしめた。限りなく優しい温かさに、リタはしがみついて泣きじゃくった。涙が邪魔で何も言う事は出来ないが、それでもラクリマはリタを抱きしめて背中を撫でてくれた。
「これからは……ずうっと、仲良く、暮らそうね……?」
ラクリマの穏やかな言葉に、リタは小さく頷いた。