霧の涙 第十六話「開戦 -duel-」

 リタが混乱のあまり宿を飛び出す、というのは予想できていた。だが、飛び出す直前に見せた彼女の恐怖に満ちた表情は予想以上にカイゼルの心を痛めた。知らない方が幸せな事を知らせてしまったのだから、多少は心が痛むだろうと思っていたが、これほどとは思わなかった。
 それでもカイゼルの行動は早かった。リタが家に向かって走っていたのを確認した後食堂に向かい、そこでもそもそと堅いパンを頬張っていた仲間達に呼び掛けた。
「出発します」
「出発する、って……どこに?」
 堅いパンをその場に置いてオーロとネーロが立ちあがり、一様に首を傾げた。
「リタ君の実家です。そこで、決着をつけます」
 リタは恐らく家に向かい、そこにはラクリマがいる可能性が高い。ラクリマが身を寄せられる場所と言えばその家しかないのだから、高い確率で家を拠点にして活動している。
「実家かあ……何だか堅い雰囲気だねえ。このパンよりも堅いんじゃない?」
 ジョーカーがオーロの肩に顎を乗せ、堅いパンをがじがじとかじった。パン屑がオーロの服の上にこぼれてオーロが顔をしかめたが、ジョーカーは「保存食ってどうしてこうも不味いんだろう」とパンの味に顔をしかめていた。
「しっかし、これで決着かあ。ちょっと僕、緊張してきた」
「そうか? 俺はわくわくしてきたけど」
「オーロは単細胞だからそう思えるんだよ。僕は繊細微妙な乙女なんだから一緒にしないでよね」
「椅子の上であぐらをかいてパン屑こぼしまくって食ってたくせに、よく繊細微妙とか言えるな」
「机に足を乗せて、パンでジャグリングしてたオーロに言われたくない」
 オーロとネーロはいつも通りの会話を交わしながら食堂を後にした。会話の調子はいつも通りで、緊張している様子は見受けられない。まあガチガチに緊張するよりも自然体でいる方が、カイゼルにとっても有難い。
「それじゃあ、今まで皆をまとめてくれたお礼にこれあげるよ」
 とジョーカーは持っていた堅いパンをカイゼルに投げ渡し、口笛を吹きながら珍妙なステップで食堂を後にした。
「お礼じゃなくて体のいい厄介払いじゃないですか」
 カイゼルは苦笑しながら食堂の出口に向かい、堅いパンを一口かじった。凶悪な堅さと愛情のかけらも感じられない味にカイゼルはもう一度苦笑した。
「ああ、本当に不味い」

 * * *

 雨の中、カイゼルは早足で歩いていた。雨の勢いは少し弱まったものの、宿を出てすぐに全身水浸しになった。眼鏡も雨に打たれてしまっているので視界がすこぶる悪い。
「ねえ、カイゼルさん」
 さっとカイゼルの横に現れ、カイゼルが羽織っているコートを傘代わりにしようと裾を持ち上げたのも一見すると誰だか分からなかったが、服の色合いと声でネーロだと理解できた。
「僕のコートを傘代わりにしようとするとはいい度胸ですね」
「いいじゃん。減るもんじゃないし。それより聞きたい事があるんだけど」
「何ですか」
 カイゼルのコートの裾を頭に乗せ、ネーロはカイゼルに顔を向けた。本当は目を見ているのかもしれないが、こうも視界が悪いとそれすら分からない。
「どうして、リタに全部教えちゃったの? 知らないままだったらリタも辛い思いしなくて済んだじゃん」
 ネーロの言う事はもっともで、確かに全てを知らせて自分の役目が「実の姉を殺して自分も消滅する」事だと悟らせなければ、リタのあんな悲しい顔は見る事は無かっただろう。
 それでもリタに全てを告げたのは。
「……リタ君に何も知らせず事を為そうとしたら、ラクリマ君が可哀想でしょう」
「へ? ラクリマ?」
 目指す敵の名前が出てくるとは予想しなかったのか、ネーロは素っ頓狂な声をあげた。
「ラクリマ君はリタ君ばかり愛する父君に冷たい態度を取られ、無理矢理させられた結婚相手に暴力を受け、正当防衛のために結婚相手を殺し、唐突に霧によって命を奪われ、未練を捨て切れずにこのような事態を引き起こしているんですよ」
「はあ、それはまあそうだけど……」
「もしリタ君に知らせなかったらどうなりますか。ラクリマ君は、何も知らないリタ君に敵意をむき出しにされて殺されることになるんですよ」
「うーん」
「そんな結末を迎えるよりも、全てを知ったリタ君が傷ついて考えた末に出した結論に従う方がずっといい」
「……つまり、リタが決めた事なら世界中が亡霊だらけになってもかまわない、って事?」
 ネーロの刺のある物言いにカイゼルは大げさに肩をすくめた。
「もしリタ君がそれで良いと決めても、僕が嫌なので精一杯リタ君を説得してみますよ」
 例えリタやラクリマと一緒に楽しい日々を過ごせるとしても、亡霊がはびこる世界なんてものは間違っている。どんなに辛い思いをしようが、「生きた」人間達の世界の方が絶対に正しい。
「ちゃんと説得できるのかなあ。カイゼルさんの言葉って何か嘘臭いから不安なんだよ」
 コートの裾を頭に乗せ直しながらネーロはぶつぶつと文句を言ったが、カイゼルは聞こえないふりをした。

「なあ、カイゼルさん」
 さっとカイゼルの横に現れ、カイゼルが羽織っているコートを傘代わりにしようとネーロが持つ裾とは反対側の裾を持ち上げたのも一見すると誰だか分からなかったが、服の色合いと声でオーロだと理解できた。
「二人とも僕のコートを何だと思っているんですか」
「コートはコートだろ。それより聞きたい事があるんだけど」
「君も何かあるんですか」
 カイゼルのコートの裾を頭に乗せ、オーロはカイゼルに顔を向けた。本当は目を見ているのかもしれないが、こうも視界が悪いとそれすら分からない。
「質問と言うか確認かな。亡霊云々が解決したらさ、俺らのお父さんは助かるんだよな?」
「あ、それ僕も気になる」
 確か、オーロとネーロの父は二人と母を庇って亡霊になったという話だった。その辺りの詳しい事情はカイゼルは知らないが、彼の肉体は無事で、母が抜け殻になった体の世話をしているという事だけは把握していた。
「肉体が無事なら、全てが解決したら魂はそこに戻っていきますよ」
 帰る場所を失った魂は転生の為に新たな居場所を探し、帰る場所のある魂はそこへ還る。今までの「調査」からそれは明らかだった。オーロとネーロが亡霊の記憶を刈ってそれを検分すれば、どの亡霊も元の場所に還りたがっていた。ラクリマの糸から解放されれば、元の場所へ還ろうとするのは間違いない。
 カイゼルの言葉にオーロは何度も頷いた。
「それならいいんだ」
「オーロ君は本当に、お父さんが好きなんですねえ」
 カイゼルがからかうように言うと、オーロは物凄い勢いで首を振った。
「べ、別に好きじゃねえよ。もしお父さんがいなくなったら、多分お母さんは暴力の矛先を俺に向けてくるんだよ。俺はそれが嫌なだけでだから俺は」
「台詞が長いよ。もうオーロはファザコンでいいじゃん」
 カイゼルの体越しにネーロが悪戯っぽく呟く。
「誰がファザコンだよ! ネーロの方がファザコンだろ、ちっちゃい頃お父さんにべったりだったのはどこのどいつだよ」
 オーロはカイゼルのコートの裾をぐいぐい引っ張って怒りを主張し、
「それは否定しないけど、オーロだってべったりだったじゃないか! それで二人でお父さんで遊んでたでしょ!」
 ネーロもカイゼルのコートの裾をぐいぐい引っ張った。「お母さんの暴力の矛先」と「お父さん「で」」という発言から彼らの家庭内の位置関係が何となく見えたが、そこを深く知ろうという気は起きなかった。
「君達のくだらない喧嘩に僕のコートを巻き込まないでください。怒りますよ」
 カイゼルが二人の手をコートから剥がし、これ以上ないほどの笑顔を浮かべると、
「う」「う」
 二人はうなだれて喧嘩を止めた。

 歩みを進めているうちに富裕層向けの区画まで辿り着いた。凝った意匠が施された家々が並び、きらびやかな商品が並んでいた高級店も軒を連ねている。確か十字路を曲がった先にはラクリマが好きだった老舗の高級菓子店があったはずだ。何度か彼女の買い物に付き合った事があるが、異常とも言えるほどのマカロンへの執着には驚いたものだと昔を思い出していると、その高級菓子店がある通りからジョーカーが飛び出してきた。
「美味しそうなお菓子屋さん発見!」
 ジョーカーはマカロンの箱を抱えており、口には菓子の食べかすが付いていた。町の人々が消えた時期を考えると、相当古くなったお菓子であるのは間違いない。
「そんな古い物食べたら、お腹壊しますよ」
 とカイゼルがたしなめても、ジョーカーは一口マカロンを頬張った。
「大丈夫、大丈夫。天下のジョーカー様はお菓子如きに負けやしないんだから。リタちゃん家ってここをまっすぐ?」
「直進して行き止まりの所にある大きな家ですよ」
「ん、りょうかーい」
 ジョーカーはぽいぽいとマカロンの箱を放り投げ、ステッキをリズミカルに振り回しながらおよそ人間のものとは思えないステップでカイゼルの遥か前方を歩きはじめた。その足取りを見ていると、本当にジョーカーという人物は良く分からないなと思わず苦笑した。
「……カイゼルさんさあ、ジョーカーって何者か知ってる?」
 オーロがそんな質問を投げかけてきたが、カイゼルは首を振った。「狭間の世界」から友人の頼みを聞いてこの世界にやって来た、なんて面倒な説明はする気になれない。第一、ジョーカーが言う世界の在り方を完全に理解しているわけでもないのに人に説明するなんて、カイゼル自身が許せない。
「オーロ君とネーロ君こそ知らないんですか? 彼との付き合いは君達の方が長いでしょう」
「僕らが知ってるわけないでしょ。初めて会った時だってすごい出鱈目言って来たんだから」
 ねえ? とネーロがオーロに同意を求めると、オーロはうんうんと頷いた。
「世界の危機を救うためハザマのセカイから呼ばれて飛び出てジャジャジャジャン、とか言って来たんだよ。滅茶苦茶だろ」
「もうちょっとましな嘘をついたらいいのにねえ」
 二人が大げさに肩をすくめているのに対し、カイゼルはひっそりと吹き出した。
「そこまで突飛な設定だと、例え本当の事でも信じがたいですね」

 * * *

 かつてラクリマとリタが暮らしていた家は、変わらずそこに建っていた。ツタが塀に絡みつき、庭は雑草が生え渡り荒れているが、それでもカイゼルは家が懐かしいと思った。
 閉じた門扉の前でジョーカーがカイゼル達の到着を待っており、鍵を出して退屈そうにくるくると回していた。カイゼルがジョーカーの元に着くとすぐに鍵を消し、家の方を見て口を尖らせた。
「随分ガードが堅いお家だね。お庭に入る前に扉があって、お家に入る前にも扉がある」
「……それが普通でしょう」
「僕はもっとさ、出入り自由な野ざらしのあばら家みたいな家な方が好感が持てるなー」
「君のセンスを疑います」
 カイゼルは門扉に手をかけると、鍵がかかっていた様子もなくあっさり開いた。庭を通って玄関に向かうと、玄関先に一人の男が立っていた。男はカイゼルに気付くと人畜無害な微笑みを浮かべて煙管をくわえた。
「誰かと思ったら、リタちゃんみたいなかよわい女の子を泣かした罪な人じゃない」
「ああ、誰かと思ったらいつぞやの卑怯者じゃないですか」
 互いに刺のある言葉を投げ合ったが、カイゼルもヴェキアもにこにこと微笑みあっていた。辺りがピリピリとした空気になる……かと思いきやヴェキアはあっさり玄関の扉を開け、
「リタちゃんはこの先にいるよ。会いたかったら会えばいいんじゃないかな」
 カイゼルに先に進むよう促してきた。その言葉に甘えて先に進みかけると、ヴェキアがぴんと人差し指を立てた。
「ただし、そこの双子ちゃんとはちょっと話したい事があるから、進むのはカイゼルさんと道化さんだけね」
 立てた人差し指はびしっとオーロとネーロを差した。
「上等。俺らもお前とは話がしたい」
「というか話をしないと、僕らも後々困るんだよ」
 オーロとネーロは不敵にヴェキアを睨む。それでもヴェキアはにこにこと微笑んでおり、人差し指を引っ込めてカイゼルとジョーカーに中に入るよう促した。
「……オーロ君、ネーロ君、大丈夫ですね?」
 カイゼルが念を押すと、二人はだぶついた袖の中で親指を立ててみせた。
「「余裕だね!」」

 双子を残してロビーに入ると、そこはカイゼルの記憶そのままに保たれていた。このロビーだけが時間の流れから切り離されているのではないかと錯覚するほどの完璧さだった。
「ひゃあ、豪華なおうち」
 ジョーカーは口をぽかんと開けて辺りを見回し、天井からつるされたシャンデリアを見て「売ったらいくらになるんだろう」と不謹慎な妄想を働かせていた。
 昔と部屋の用途が全く変わっていないのならば、応接間は正面にある大きな扉をくぐった先にあるはずだ。カイゼルが一歩踏み出すと、応接間につながる扉の前にするりとアピーナが現れた。
「何の用ですの」
 アピーナの声には隠すつもりもない敵意が溢れており、辺りの空気が一気にぴりぴりした。
「リタ君と話がしたいだけです。どいてくれませんか」
「リタ様はただ今ラクリマ様とお話をしていらっしゃいます。例えカイゼル様の頼みでも、ここを通すわけにはいきませんわ」
 アピーナは黒い日傘を弄り、石突から小さな刃が姿を現した。その刃はやはりぬらぬらと光っているが、以前見たものとは光り方が微妙に違っていた。恐らく以前のものとは違う毒が塗られているのだろう。
「無理に通ろうとするのなら……お分かりですわね?」
「おっかないですねえ」
 カイゼルは彼女の強烈な敵意に苦笑しながらも、二つの盾を生み出した。
「それにしても、あの毒を受けてよく生き残れましたわね」
 改良に改良を重ねて出来たあの毒は決して解毒できないはずなのに、とアピーナはそっと首をかしげた。
「すみませんねえ、あの程度の事で死ぬわけにはいかないんですよ」
「では、今お亡くなりになります?」
 アピーナは日傘をカイゼルに向け、鋭く睨みつけた。痛いほどの敵意がカイゼルの頬をピリピリと刺激する。
「お断りです」
 カイゼルが一歩踏み出すと、アピーナは地面を蹴って鋭い突きを食らわそうとした――が、その直前にひょいと二人の間に割って入ったジョーカーが、アピーナの傘を勢いよく蹴り上げた。予想外の衝撃に傘はあっけなくアピーナの手元を離れ、宙を舞った後に遠く離れた地面に落ちた。
「カイゼルがお亡くなりになるのは困るんだよねー」
 ジョーカーはするりと鍵を取り出し、アピーナに軽くそれを向けた。アピーナはそれを受けて懐から一本の短刀を取り出した。
「……邪魔するのでしたら、容赦は致しませんわよ……?」
「それ僕の台詞ー」
 ジョーカーが前触れなく鍵を突き出したが、アピーナは高く跳んでそれを避け、空中から複数の短刀をジョーカーとカイゼルに向かって投げつけた。そのどれもが強力な毒が塗られているのだろうが、カイゼルはそれを盾ではじき、ジョーカーは自分に向かってくる短刀だけを鍵ではたき落した。
「カイゼル、あの子は僕が引き受けてあげるからリタちゃんと会ってきなよ」
「……そうですね、お願いします」
 カイゼルはアピーナが再び距離を詰めてくる前に応接間の扉を開け、その中へ入って行った。
 それを見てアピーナはすぐに応接間に入ろうとするが、ジョーカーがすかさずその間に立ちはだかる。
「どいて下さる?」
「駄目駄目。ここは空気を読んでラクリマとリタちゃんとカイゼルの感動の対面をそっと見守ってあげようよ」
 そう言いながらジョーカーは鍵を持っていない方の手でシルクハットを取り、くるりと一回転させた。
「感動の対面が終わるまでの間はさ――」
 勢いよくシルクハットを放り投げると、そこから一羽の鳩がばさばさと飛び出して行った。放り投げられたシルクハットはふわりと宙を舞い、ジョーカーの頭に再び被さった。
「――ショータイムと洒落込もうよ!」

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