霧の涙 第十七話「欺瞞 -deceive-」

「さて、ようやく二人きり……じゃないな、三人きりになれたね」
 煙管の先端から紫煙を燻らしながら、ヴェキアはオーロとネーロに向かって一歩踏み出した。雨はまだしとしとと降っており、玄関の軒下から出たヴェキアの全身を満遍なく濡らした。
「……お前さ、生きた人間なのに何で亡霊の味方してるんだ?」
 ヴェキアが寄った分だけ後ずさりをしながらオーロが問いかけると、ヴェキアは首を傾げて煙管の先端から黒い泡をぷくりと出した。
「そんなの、簡単な事じゃないか。特等席で皆が亡霊になっていく様を見たいからだよ」
「……そんな理由でラクリマの傍にいたの?」
 ネーロは軽蔑の眼差しをしていたが、ヴェキアはどこ吹く風で手持無沙汰に煙管をくるくると指で回していた。
「それに、どうせ死ぬなら沢山の死体の上で一番最後に死にたいからね。普通に死ぬのは面白くない」
「……最低だな……」
 嗜虐と諦観に満ちたヴェキアの思考にオーロは吐き気を覚え、これ以上話す事は無い、という意思表示のために鎌を出した。その横ではネーロも険しい顔をしながら鎖を出していた。
 それを見てもヴェキアの笑顔は崩れなかったが、煙管をくわえていくつかの黒い泡を吹き出した。
「放っておいてもお前達は亡霊に襲われて死ぬんだろうけどね、こうやって出会ったのも何かの縁だし、俺がお前達を殺してあげるよ」
「お気づかいどうも。でもさ」
「僕らはそんな下らないことで殺されたりしないよ」
 オーロとネーロがじりじりと距離を詰めると、ヴェキアが吹き出した黒い泡がふわふわと二人の周りを漂い始めた。
「はあ、暴力反対の平和主義者な俺が殺してあげるって言ってんのに……。人の好意を無下にするのは良くないよ」
 周りを漂う黒い泡が、一斉に破裂した。

 破裂する泡の間をすり抜けてオーロとネーロは一気にヴェキアとの距離を詰めた。オーロが鎌を振るうとヴェキアはひょいと跳んで避け、そこをネーロが鎖で狙い撃ちにしても泡を破裂させて鎖の軌道を変える。その間にも黒い泡はあちこちに散らばり、破裂し続ける。
 ヴェキアの能力が「煙管から出した泡の中にあらゆるものを閉じ込める」能力だという事はこの町に着いた頃にカイゼルから聞いていた。話によると、カイゼルはトゥラターレでヴェキアと出会い、一戦交えていたそうだった。そんな大切な事を今まで隠されていたのかと思うとカイゼルに対して怒りを覚えたが、この状況で仲違いしても仕方がないとオーロはその怒りを飲みこんだ。
 空気を凝縮して作る衝撃波も厄介だったが、ヴェキアが持つ能力を考えるとそれ以上に厄介なものがあってもおかしく無かった。破裂する泡を避けながらヴェキアの一挙手一投足に気を配っているが、ヴェキアはただひたすら黒い泡を作り続けているだけだ。
「ほらほら、避けてばっかじゃ勝てないよー」
 などと挑発する余裕すらある。
「ご心配どーも」
 ネーロが影の中から複数本の鎖を生み出し、ヴェキアめがけて鎖を飛ばした。複数の鎖を束ねることで弾かれにくさは上がっているが、それでもヴェキアがいくつかの泡をまとめて破裂させれば簡単に軌道が逸れた。逸れた鎖はヴェキアの真横の壁に突き刺さり、ネーロの影にするすると戻っていく。
 オーロはヴェキアの意識がネーロに注がれた一瞬を見逃すことなく距離を詰めて鎌を振るが、鎌がヴェキアの体を切り裂く直前で、その煙管が鎌を受け止めた。オーロがどれだけ力を込めても、鎌はそれ以上進まない。
「戦法がワンパターンじゃない?」
 ヴェキアがオーロに顔を寄せてからかうように言った。オーロは何か言い返そうとしたが、その直前に喉元にひやりとした気配を感じて考える前に後ろに跳んだ。
 そうしてオーロの足が地面から離れた瞬間、オーロの喉元に強い衝撃が走った。意識が飛びそうな程の衝撃を受けて、後ろに跳んだオーロはまともに着地する事が出来ずに尻餅をついて倒れた。
「オーロ!」
 ネーロが心配そうな声をあげたが、オーロは腕を挙げて無事を示した。
「くそっ、痛えなあ……」
 ヴェキアがオーロの気を引く台詞を吐き、その隙に喉元に泡を飛ばして破裂させる。単純だが、してやられた。破裂する寸前にその気配に気付いて後ろに跳ぶ事で受ける衝撃を減らしたが、それでも顎のあたりががんがん痛む。地面に手をついて起き上ろうとしたが、腕に力を入れた途端にぐにゃりと視界が歪んだ。力を入れた腕も、正しく地面につけられているのか分からなくなり、がくりとバランスを崩す。
「バランス感覚を崩しちゃったら、もろいもんだね」
 起き上ろうにも起き上れないオーロのすぐ傍にヴェキアが歩み寄り、オーロの歪んだ視界の中でにっこりと微笑んだ。
「……何を、しやがった……!」
「分からないかなあ。脳震盪を起こしただけなんだけど」
 ヴェキアはそっとオーロの首を掴んだ。その手に殺意はなく、本当にただ掴んでいるだけで、首を絞める気配は感じられなかった。それでもオーロは抵抗したが、ヴェキアの手はびくともしなかった。
「顎のあたりに強い衝撃を与えたら、誰でも暫くの間は立てなくなる。後ろに跳んで衝撃を和らげたのは賢明だったけど、ちょっと気付くのが遅かったね」
 抵抗するオーロを抑えつけながらヴェキアは煙管をくわえ、深く息を吸った。煙管から小さな泡こそ出て来なかったものの、オーロの周りを冷たい空気が取り囲んだのが感じられた。
「オーロ!」
 煙管による攻撃を防ぐべくネーロが鎖を片手に駆け寄ってきたが、オーロは反射的に「来るな!」と叫び、鎌をネーロがいる辺りに投げた。平衡感覚が失われた頭ではきちんとネーロの元に届くのか不安だが、とにかく鎌を自分の周りから遠ざけておくべきだと直感した。
「暫くの間、大人しくしておいてね」
 ヴェキアがオーロの首から手を離した瞬間、オーロの全身を黒い泡が包み込んだ。

 オーロを包みこんだ黒い泡は、見る見るうちに小さくなってヴェキアの手の平の中に収まった。物理法則を無視した現象が起こっていたが、これもヴェキアの能力の一端なのだろうな、とネーロは理解した。
「……さて、お兄ちゃんが捕まっちゃって寂しいかな?」
 ヴェキアはオーロが入った泡をぽんと軽く放り投げると、泡はヴェキアの顔の横のあたりにふわりと浮かんだ。ネーロは足元に落ちたオーロの鎌を取り、鎌の柄尻の部分に鎖を取り付けた。
「寂しくないね。すぐに取り戻すから」
 じゃらじゃらと鎖を鳴らせてネーロは鎖鎌を構えた。物理的な殺傷力を持ったこの状態でヴェキアを切り裂けば恐らく殺してしまうだろう。出来ればそれは避けたいが、もしヴェキアを殺してしまっても罪悪感にはそれほど苛まれない気がした。
「感動的な兄妹愛だねえ……」
 ヴェキアは煙管からぽこぽこと黒い泡を出し始めたが、ネーロはその泡が破裂する前にヴェキアの懐に突っ込んで鎌を振るった。ヴェキアは後ろに跳んでそれを避けるが、それぐらいは予想できていた。ヴェキアの手、正確にはその手に握られている煙管めがけて鎖を投げた。狙いは外さず、鎖はヴェキアの煙管を絡め取った。
「あら」
「……勝負あり、だね」
 鎖を引き戻し、煙管を手に取ってくるくると回してネーロはにやりと笑った。武器さえ奪ってやれば相手はただの笑顔を浮かべるだけの一般人だ。ネーロは自分の勝利を確信したが、ヴェキアは一切表情を崩さずにこにこしていた。
「勝負あり……そう思うのはお前の自由だよ」
「回りくどい言い方しなくてもいいんだよ、ほら、さっさとオーロを元に――」
 元に戻すんだ、そう言い終わる前にネーロは喉元にひやりとした気配を感じた。これは――と言葉にして考えるよりも先に腕を交差させて喉元をガードした。喉元にあった黒い泡が破裂して強い衝撃がネーロの両腕を襲う。ぐらりと体勢がよろめいた瞬間、ネーロの周りに現れたいくつもの黒い泡が一斉に破裂した。
「……っ!」
 片っ端から鎌で衝撃をガードしていくが、あまりにも数が多く対処しきれない。柄尻に強い衝撃を受け、鎖が柄尻から弾け飛んで遠くの草むらへ落ちて行った。そうこうしているうちに鎌も過度の衝撃を受けてぼろりと崩れ去った。武器を失ったネーロはいくつかの泡の破裂をまともに受け、その場に崩れ落ちた。
「よかった、騙されてくれて」
 ヴェキアがそっとネーロの脇腹を蹴る。うう、とネーロが唸り声をあげると「あら、まだ意識があったの?」とヴェキアは少し意外そうな声をあげた。
「……騙されて……くれて……?」
「そ。お前達は俺の能力が「影から煙管を出して、その煙管から黒い泡を出す能力」だと思ってた。そうでしょ?」
 違うんだよねえ、とヴェキアはけらけらと笑った。
「俺は別に、煙管がなくても黒い泡は出せるよ」
 リタが何の道具も出さずに黒い霧を出すのと同じように、ヴェキアも何の道具も出さずに黒い泡を出す事が出来る。
「敵が「ヴェキアは煙管から黒い泡を出す」って勘違いしてくれたらちょっとは有利になるかなと思ってやってたんだけど、こうも見事に騙されてくれると長い間煙管をくわえてた甲斐があったよ」
 ヴェキアが爪先でネーロの顎を押し上げ、ネーロは全身の痛みに耐えながらヴェキアを睨みつけた。
「安心してよ。俺はここでお前達を殺す気はない。もっとちゃんとしたところで、魔女が大嫌いな皆に罵られながら焼殺される、っていうお前達にぴったりの最期を用意してあげるから」
「……僕らは、死なないよ……」
「はいはい。下らない嘘をつくのは止めましょうね」
 ヴェキアはネーロから一歩引き、深く息を吸い込んだ。辺りが冷たい空気に包まれた。
「ゲームオーバー、だよ」
 ヴェキアがそっと微笑み、ネーロはそれに応えるかのようににっこり笑った。

「お前がね!」

 ヴェキアが眉をひそめた瞬間、遠くの草むらに落ちていた鎖がひとりでに動き出してヴェキアの元に蛇のごとく襲いかかり、体を縛り上げた。鎖はヴェキアの身の動きと能力を封じ、ネーロを包んだ冷たい空気も消えうせた。
「あら」
 ヴェキアは短く驚きの声をあげたが、目は相変わらず笑っていた。
「……よかった、騙されてくれて」
 ネーロは先程のヴェキアの台詞を真似ながらふらふらと立ち上がり、不敵に笑ってみせた。
「ふうん……お前の鎖は、遠隔操作ができるんだね。すっかり騙されちゃった」
「遠隔操作は疲れるから嫌なんだ。とにかく、オーロは返してもらうよ」
 ネーロはヴェキアの顔の横に浮いている泡を手に取り、つんつんと強くつついた。すると軽い破裂音が鳴り、ネーロにもたれかかるようにしてオーロが姿を現したが、ネーロはもたれかかられる前にオーロを突き飛ばした。
「いて」
「僕の方がもっと痛い思いしてるよ。見てよ、この満身創痍ぶりを」
 オーロはよろけながらも立ち上がり、鎖に縛られているヴェキアを見て口笛を吹いた。
「お、やったじゃん」
「もう本当、褒め称えて肩を叩いて足をマッサージしてほしいぐらいだね! でもその前に早く鎌を出してやっちゃってよ」
「……殺すつもり、かな?」
 ヴェキアがにこりと微笑んで見せると、オーロとネーロは揃って首を振った。
「お前みたいな奴、殺したくもない」
「記憶をちょっと頂くだけだ」
 オーロは鎌を取り出し、刃をぴたりとヴェキアの首筋に当てた。
「記憶だけでいいだなんて、随分と優しいんだねえ。俺は本気でお前達を殺すつもりだったんだよ?」
「そんなの僕らの知った事じゃないよ。とにかく、僕らの正体を知ったんだったら」
「俺らに関する記憶を丸ごと取らせて貰う」
 オーロが鎌を両手で持って振りかぶった。ヴェキアは抵抗する気配もなく、にこにこと微笑んでいる。
「お前達は亡霊なんかにやられる前に、俺の手で殺したかったんだけどね……お前達の事は全部忘れちゃうのかあ。残念だなあ」
 オーロの鎌が、ヴェキアの体を通り抜けた。

「よし、終わり!」
 鎌の上に乗ったヴェキアの記憶を手に取り、ネーロに投げ渡した。ネーロはその記憶を鎖で厳重に封印し、己の影の中にその記憶を納めた。
「こいつどうする?」
 オーロは自分の足元で気を失って倒れているヴェキアを指さした。少し多めに記憶を狩れば大抵の人は気を失って倒れる。こうなってしまったら丸一日は目が覚めず、起きても暫くの間は状況を把握できずにぼうっとしてしまう。
「放っとけばいいんじゃない? 死ぬわけじゃあるまいし」
「だよな」
 オーロとネーロはその場にヴェキアを残し、玄関の扉を開けて中へと入って行った。最後、地に伏すヴェキアに対してオーロはにっこりと笑顔を浮かべた。
「残念だったな、俺らは何があっても負けやしねえんだよ」

 * * *

 カイゼルが応接間に入ってしまった事はアピーナにとって大きなミスだったのだろう。ジョーカーと対峙している今でさえ、アピーナはちらちらと応接間の方を伺いながら苛立ちのあまり舌打ちしている。
「そんなにラクリマが気になるの?」
 ジョーカーが素直に疑問に思った事を口にすると、アピーナはあっさりと頷いた。
「私が今ここにあるのは、ラクリマ様のお陰ですもの」
「だからって、尽くす必要はないんじゃないの? 尽くすメリットは無いんでしょ?」
 こうして人の形を取れるまで強くなった亡霊なら、ラクリマの命令に従わないという生き方を取る方が賢明だし楽しいように思える。仮にジョーカーがアピーナと同じ状況にあれば、間違いなく誰にも仕えることなく自由に亡霊として各地を巡って楽しく時を過ごす。
「貴方のような、情の無いお方には分かりませんわ」
 アピーナは一瞬だけ笑顔を浮かべたがすぐに引っ込め、懐から一振りの短刀を取り出した。ジョーカーもそれに呼応するように鍵を構え直し、にこりと笑顔を浮かべた。
「分かりたいとも思わないから別に良いよ。さて、少しだけ大人しくしてくれるかな?」
「どうやって大人しくさせるつもりですの?」
 アピーナが一気に距離を詰めて突きを繰り出してきたが、ジョーカーは鍵でそれを受ける事はせずに柔らかな動きで突きをかわし、すれ違いざまに鍵でアピーナの背を殴った。手加減せずに殴ったのだが、アピーナは少し呻いただけでそれほど大きなダメージにはなっていないようだった。
「力ずくで……は無理なんだよね」
「よくご存じでいらっしゃいますわ。力ずくでも、ジョーカーさんの鍵で私を「開い」ても、一瞬姿を失うだけですぐに元通りになりますわ」
「だよねえ」
 亡霊は亡霊にしか「完全に黙らせる」ことはできない。研究の末に導き出したカイゼルのその結論をジョーカーは良く覚えていた。
「貴方の力では私に勝てませんわ。大人しく、道を明け渡しなさいな」
「さもないとその短剣で刺して毒殺しちゃうよ、とか?」
 ジョーカーが首を傾げて見せると、アピーナは短剣を構えたまま小さく頷いた。
「怖いなー、でも退くわけにはいかないんだよなー」
「では、死んでくださる?」
 アピーナが短剣をくるりと一回転させてから、ジョーカーの懐に突っ込んで来た。
「悪いけど、僕は死なないよ」
 ジョーカーは何もない空中に鍵をつき刺し、開いた。途端に辺りに白い霧が立ち込め、ジョーカーは白い霧の中に身を隠した。

 このまま「遠く」へ歩き出せば狭間の世界へとたどり着くのだが、ジョーカーは今回はそうせずにごく短い距離を歩いて白い霧から出て行った。この世界と狭間の世界の境界線付近は距離感が出鱈目で、コツさえつかめば世界中の好きなところに姿を現す事が出来る。以前トゥラターレでカイゼルと共にヴェキアから逃れた時もこの手法を使った。
 白い霧を出たジョーカーは、アピーナの真上、ロビーのシャンデリアの上に立っていた。ジョーカーを見失ったアピーナはその場できょろきょろし、警戒した様子で短剣を構えていた。
「頭上がガラ空きよ、っと」
 ジョーカーはそう呟きながらポケットからトランプを取り出し、ちゃっちゃと手早くカードを切り始めた。それでもアピーナは気付く気配がなく、遠くに蹴り飛ばされていた日傘を拾って短剣から日傘に持ちかえたりしていた。
 切り終えたカードを両手に分けて持ち、ジョーカーはシャンデリアから地上へと飛び降りた。
「一瞬のショータイム、お楽しみあれ!」
 両手に持ったトランプを扇のように広げ、一斉にそれらをアピーナに向けて投げつけた。頭上から現われた事にアピーナは驚いていたが反応は早く、素早く日傘を広げてトランプの雨を受け止めた。何枚かのトランプは日傘に突き刺さったが、多くは日傘にはじかれてぽろぽろと地面に落ちた。こんなトランプでは攻撃にならない事は分かっていた。せいぜい敵がこうして自ら「死角」を生み出してくれるように誘導する事ぐらいしかできない。
「あーあ、ビニール傘でも使ってたらこれぐらい読めたのにね」
 アピーナが日傘を退ける直前に、ジョーカーの鍵は日傘を突き抜けてアピーナの胸を刺し捕え、アピーナは胸に刺さった鍵を見つめながら悔しげに呟いた。
「……そんな安っぽい物、使う気になれませんわ。開くなら、さっさと開きなさいな」
 鍵を刺したまま回さずに、ジョーカーは楽しげに首を振った。
「君さあ、僕の能力が「開く」ばかりだと思ってない?」
「……鍵だから、閉じることも出来ますわね。でも、それが何か?」
「亡霊にも心はあるんだよね。それを閉ざしちゃえばどうなるか……分からないかなあ」
 ジョーカーは漏れ出てくる笑いを抑えることもせず、くすくすと笑った。
「心を……閉ざす……?」
「心を閉ざす、って感情を押しこめるって意味合いで良く使われるけどね、本当に完璧に心を閉ざしたら……考える事をやめちゃうんだよ」
 町の人々を吸収して生まれ変わったリタが、完璧に心を閉ざした典型的な例だ。自分の行いを認めたくなくて思考を放棄し、眠り続けてたまに起きても何も見聞きしない。
 ジョーカーがやろうとしている事を察したのか、アピーナの顔に初めて恐怖がじわりと浮かんだ。
「……まさか……私をその状態に追い込もうと?」
 アピーナが鍵を引き抜こうと抵抗したが、ジョーカーはより深く鍵を差し込み、
「それじゃ、お休みなさーい」
 がちゃん、とアピーナの心を閉ざした。

 * * *

 深い眠りに落ちたアピーナを部屋の隅の方に動かし、ジョーカーは応接間の前で座って待った。外が何かの破裂音で少し賑やかだったがやがて静かになり、双子とヴェキアの争いが終わったかと察すると同時に、オーロとネーロが扉を開けてロビーに入ってきた。
「カイゼルさんは?」
「応接間の中。邪魔しちゃ駄目だよ」
 応接間の番のように座るジョーカーに対して、ネーロは首を傾げた。
「どうしてさ。カイゼルさん一人で戦えると思えないし、加勢しないとやばいんじゃないの?」
「戦うだなんて、ネーロは相変わらず原始人だなあ。もうちょっと文明的に生きなよ」
 ジョーカーがからかうように言うと、ネーロが「きいっ」と掴みかかってきたがオーロがそれを抑えた。
「説得で何とかする、って言うのかよ」
「うん。これは三人の問題なんだから、これ以上深入りする権利は僕らにはないんだよ」
 それに、とジョーカーは脇腹を押えた。
「さっきからお腹が痛いから加勢しようにもできないんだよ」
「なっ……何でそういう事早く言わねえんだよ!」
「あのアピーナって奴から毒でも食らったの?」
 にわかにオーロとネーロが騒ぎ出したが、
「……このジョーカー様が……古いマカロンにあたるだなんて……っ!」
 とジョーカーが呟くと、
「…………」「…………」
 辺りの空気が一気に冷たくなった。
「……ジョーカーは放っておいて、待つとするか。ネーロ」
「……だね。こんな馬鹿、看病する価値もない」
 応接間の扉を背にしてオーロとネーロは座り、ジョーカーは絶え間なく襲ってくる腹痛に脂汗をせっせと流した。

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