霧の涙 第十八話「悪役 -if-」
久しぶりに訪れる応接間は、かつてカイゼルが住んでいた頃よりも美しく手入れされ、高級な家具が並んでいた。床に敷かれた毛の長い絨毯を踏みしめながらカイゼルは歩き、ソファに並んで座る二人の前に立った。
「……お久しぶりです、ラクリマ君」
カイゼルが軽く頭を下げると、ラクリマはにこりと笑顔を浮かべてソファから立った。そこにはトゥラターレで見せた狂気の気配はなく、いつも通りの彼女に見えた。
「久しぶりね。会えて嬉しい」
ラクリマに追従するようにリタもソファから立ち上がり、無言でカイゼルに会釈した。その様子からカイゼルに対する不信感は強く、完全にラクリマを信じているのは分かった。
「ここまで来てくれたって事は、私達と一緒に暮らしたい、って事かしら?」
ラクリマはカイゼルに手を差し出してきたが、カイゼルははっきりと首を振った。
「……ラクリマ君、そろそろ終わりにしましょう」
「……終わり……?」
ラクリマの顔からふっと笑顔が消え、カイゼルが何か言う前に彼女はリタの肩を掴んで小さくかぶりを振った。
「どうして終わりにするの? 私はまだ、やりたい事がたくさんあるのよ」
「君の思いも分かりますが、君が今ここにいる事自体が許されることではありません」
「……どうして、そんなに酷い言い方をするの? どうして、亡霊になったらいけないの? 私とカイゼル、何が違うって言うの?」
ラクリマの目に見る見るうちに涙がたまり、頬を伝って一滴流れ落ちた。そうして涙を流す様子は本当に人間のようで、カイゼル自身も彼女が亡霊である事は認めたくなかった。出来る事ならばこれは悪い夢であって、また三人で楽しく暮らしたいと願う気持ちもある。
だが、現実はそうではない。カイゼルは深く息を吸い、感情を殺した。
「……リタ君、僕が言った事を覚えていますか?」
リタは自分に話が飛んでくるとは思わなかったのか、名指しにびくりと反応し、震える手でラクリマの服の裾を掴んだ。
「君がやるべき事は、ラクリマ君にすがる事じゃありません」
「……で、でも……」
リタはカイゼルから目を逸らし、今にも泣きそうな表情でじっと足元を見つめた。
「……私、も……まだ、死にたくない……」
確かにリタがそう思うのも理解できる。リタはまだ若く、やりたい事も沢山あるだろう。彼女に広がっていた未来は唐突に奪われ、自らの死を意識する前に本能が「能力」を駆使し、ねじ曲がった形で再び生を取り戻してしまった。
リタの霧とラクリマの糸とカイゼルの盾。それらが重なった偶然で、リタの人生は大きく変わってしまった。どれかが欠けていれば、こんなことにはならなかった。リタが霧を出さなければ、こんな風に二人が命を失う事は無かっただろう。ラクリマが糸でつなぎ止めていなければ、失われた命は正常に転生を果たしただろう。カイゼルが盾を出さずに霧で命を落としていれば、誰もリタがラクリマを殺すよう仕向けなかっただろう。
「……君が辛いのは、僕もよく分かります」
そもそも「能力」に目覚める確率、それらが相乗効果を生み出す確率を考えると、本当に奇跡的な確率でこんな現象が起こってしまった。
「でも、いつまでも事実から目を背けていてはいけませんよ」
逃げていては何も変わらない。それどころか事態は悪化していってしまう。こうしている間にも亡霊は人間を襲って新たな亡霊を生み出している。リタもそれは頭では分かっているのだろうが、心はその事実を頑なに拒んでいるのだろう。
「やりたい事があるなんてエゴで他者の命を縛りつける事を、君は良しとするのですか!」
カイゼルがたたみかけるように問いかけると、リタは震えながらもラクリマの服の裾から手を離した。その眼は今にも泣き出しそうな程に涙が溜まっていたが、目の奥に宿る光はカイゼルが今まで見た事のないものだった。
「……カイゼル……」
リタはカイゼルに一歩近づき、カイゼルの目をまっすぐに見据えてきた。こうしてじっと目を見られるのは久しぶりだなと感じつつ、カイゼルもリタの目をじっと見つめた。ラクリマがリタの肩を抱こうとしたが、リタは無言でラクリマの手を振り払った。
「私……私がやる事は、分かってるの。私にしかできないって事も、分かってるの」
リタは胸に両手を当て、そっと目を伏せた。
「……でも、一つ、気になる事があるの」
目を伏せたまま、リタは迷うような素振りを見せた。この場面で逡巡されても困るのでカイゼルはリタに続きを言うよう促し、リタはますます泣きそうな顔をしながらも呟いた。
「カイゼルは……私達が死んだって構わないの?」
「そんな訳ないじゃないですか」
予想もしなかった単純な疑問にカイゼルは即座に答えたが、リタの目は納得していないようだった。
「そう思うのなら、どうしてそんなに落ち着いた顔をしていられるの」
確かにこの状況にあってもカイゼルは落ち着いていた。もうすぐ別れが訪れるというのに、カイゼルの心には焦りや緊張は少しも現れていなかった。きっとリタから見れば、さぞ冷たい表情をしているのだろう。
「……考え抜いた末に出した結論に、揺らぐ心もありませんから」
カイゼルはリタに歩み寄り、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。リタの瞳には未だ強い不信感が根付いており、泣きそうな顔をしながらもカイゼルの目をまっすぐに見ていた。
「考え抜いて……私にお姉ちゃんを殺させようって決めたの?」
リタの手がかたかたと震えだす。
「私がお姉ちゃんの事が大好きだ、って分かってて殺させようって決めたの?」
カイゼルが何も言わずにいると、リタの目に明らかな敵意が宿った。
「……カイゼルは、私達の事なんか嫌いなんでしょ! 皆で暮らしてた頃から、そうだったんじゃないの!」
皆で笑顔を浮かべて過ごした日々が脳裏によぎり、カイゼルは自然と己の眉間にしわが刻まれるのが分かった。
「リタ君」
カイゼルはきつくリタを睨みつけ――
――ぱん。
リタの頬を平手で打った。
手加減はしていたがリタの頬は赤く染まり、カイゼルの右手も心なしか赤く染まった。
「君は、僕がリタ君とラクリマ君を嫌っていると思っているんですか!」
カイゼルは突然の平手打ちに呆然とするリタの肩を掴み、膝を折って目線を合わせた。
「いいですか。僕は君達の事が世界で一番大事です。君が信じるまで、何度でも言いますよ」
リタの瞳から敵意が消え、迷いが生じるのが分かった。カイゼルは全ての演技を止め、真剣な表情でリタの顔を見つめてその細い肩を強く掴んだ。
カイゼルがもう一度言葉を吐こうとした時、リタの背後にすっとラクリマが寄り添い、リタの肩を掴むカイゼルの手の上にさらに手を重ねてきた。
「……本当に、大事に思ってくれてるの?」
そう呟くラクリマは微笑みを浮かべており、頬に一筋の涙が流れていた。カイゼルはラクリマの手を払う事はせずに、口をきつく結んで頷いてみせた。
「そう……嬉しいわ」
ラクリマはカイゼルの手を優しく握り、微笑みを引っ込めて少し悲しそうな表情を浮かべた。
「……少しの間だけ、我慢してね」
足元がひやりと冷たくなる。カイゼルは瞬間的にラクリマの言葉の意味を理解し、彼女の手を払いリタの肩から手を離して素早く後方へ跳んだ。するとつい先程までカイゼルがいた場所から何本もの黒い糸が姿を現し、後方に跳んだカイゼルの両足にするりと絡みついた。カイゼルは盾を出そうとしたが、その前に足に絡みついた糸が強い力で膝を絞めつけた。危ない、とカイゼルが危機を察すると同時に、膝周りの骨がみしみしと音を立てて潰れた。
「……っく……!」
カイゼルが盾を出して糸を断ち切るも、既に膝には致命的なダメージがあり、立つ事が出来なくなった。膝を触ってみると、皿がひどく割られているのが分かった。この膝では立つどころか足を曲げることすら出来ないだろうとどこか冷静な頭で考えながら、カイゼルは激痛に耐えて手をついて上半身を起こした。
「……お願いだから、盾をしまってじっとしてて。痛くしないから」
「君は、僕を亡霊にするつもりですか」
盾をしまうことなくカイゼルはラクリマを睨みつけた。
「そうよ。三人で、今までみたいに仲良く暮らすの。それが私にとって、一番の幸せなのよ。大事に思ってくれてるのなら、じっとしてて」
ラクリマはカイゼルの髪に触れようと手を伸ばしてきたが、カイゼルはその手を盾で弾いた。
「そんなおままごとで、本当に幸せになれると思っているんですか」
理想ばかり見ていないで、現実を認識しなさい。カイゼルが諭すように言っても、ラクリマは首を横に振った。
「私はカイゼルと一緒にいたいの。どうして、そんなことも叶わないの?」
「君は、既に死んだ身です。死者が生者を食い物にして好き勝手行動することなど、許されません」
今こうして泣きそうな表情をしているラクリマは、本当に生者のように見える。しかし、彼女は既に死んだ身であり本来ならばこうしてカイゼルと相対していること自体、あってはならないことだ。
「君達にとっての幸せは、こんな所で生者を食い物にする事ではありません。全ての糸を断ち切って、正しく転生を果たすことです」
少し離れたところに立つリタにも聞こえるように大きな声を出したが、リタもラクリマも小さくかぶりを振った。
「僕は、君達の事が本当に大好きです。だからこそ、君達には正しい形で「生きて」欲しいんです」
「……カイ、ゼル……」
ラクリマはそれきり何も言わず、手を震えさせた。
「リタ君」
カイゼルは盾を納め、リタがいる方に目を向けた。盾を納めてもラクリマはカイゼルを殺そうとはせず、目に涙を溜めてカイゼルを見つめていた。
「……もしも、どうしても、今のままでいたいと言うのなら、まず僕を殺して吸収してしまいなさい」
「……え」
「僕には亡霊になってまで生きる価値はありません。君に沢山の嘘をついて、酷い事をするように仕向けた。いくら「君達が大好きだから仕方なく」なんて理由があっても、許されるものではありません」
カイゼルはリタの顔を見る事はせずに目を伏せた。リタもラクリマも悪くない。彼女らはただ「生きたい」と願っているだけなのだ。悪人は誰かと言うと、リタとラクリマが戦うように仕向けたカイゼル自身だ。彼女らをあるべき姿に戻すために、悪にならざるを得なかった。
もしリタがこのまま亡霊でありたい、みんなが亡霊になれば良いと願うのなら、カイゼルは自分が誰かの命を踏み台にして亡霊としてのうのうと生きる、なんて事は許されないと感じていた。今まで彼女らの心を散々傷つけておいて、他者の命まで奪って生きる資格は無い。
「カイゼル……? そんなこと言わないでよ。私は、あなたが吸収されるなんて嫌よ」
ラクリマがぽろぽろと涙をこぼしながらカイゼルに触れようと手を伸ばしてきたが、カイゼルはその手を払いのけた。
「……ラクリマ君にも、悪い事をしましたね。あの時僕が引きとめていれば、君がこんなに傷つく事は無かった」
霧が涙を流したあの日、もしもカイゼルがラクリマの想いに応えていれば、ラクリマは結婚することもなく今よりも幸せに過ごせただろう。あの時は彼女の幸せを願って結婚を後押ししたが、それが完全に裏目に出た。
好意をもっと早く伝えていれば。ラクリマの想いに応えていれば。迎えの馬車に乗ろうとするラクリマを引きとめていれば。結婚相手の素性をもっと深く調べていれば。いくつもの「もしも」が浮かんでは消えた。こんなことを考えても仕方がないのだが、彼女の幸せを願っているとそんな考えが留まる気配を見せない。
「……リタ君!」
カイゼルはぐるぐると巡る「もしも」を切り捨てるために大声でリタを呼び、その顔をまっすぐに見た。
「このままラクリマ君と二人で幸せに過ごすか、君やラクリマ君が今まで吸収した命と共に転生を果たすか。今が、決める時です」
「…………っ!」
リタは胸に手を当てて動揺の表情を見せた。大きな、本当に大きな決断を迫っている事は分かっていたがカイゼルはそれ以上何も言わなかった。リタとラクリマに正しい魂の在り方に戻ってほしいと願うのは確かだが、リタが全てを知った上で亡霊として生きたいと願うのなら、カイゼルにはそれを止める権利などない。
「……リタ……」
ラクリマが心配そうにリタに歩み寄ろうとしたが、カイゼルはラクリマの裾を引っ張ってそれを阻止した。
「カイゼル?」
「……君を取るか。僕を取るか。黙ってリタ君の決断に従いましょう」
カイゼルが顔を上げると、リタは今にも泣きそうな顔をしながら、足元からもやもやと黒い霧を出し始めた。
ラクリマを消すか、カイゼルを消すか。黒い霧はするりと二人に近づいたが、どちらかを攻撃することなく迷っていた。カイゼルは黒い霧ではなくリタの顔をまっすぐに見ていた。黒い霧が出す冷たい気配が恐ろしくもあったが、盾は出さない。ここまで来て、盾を出してまであさましく生にすがりつきたいとは思わない。
「……カイゼル……お姉ちゃん……」
リタは二人の顔を順に見てから、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい」
黒い霧が、ラクリマの体を包みこんだ。
* * *
まるでスローモーションのように、ラクリマが霧に包まれて消えていく姿が見えた。ラクリマは少し驚いた表情をしたが、すぐに落ち着いた穏やかな表情でリタに頷きかけた。リタが何か言う前にラクリマはカイゼルの方に顔を向け、ふんわりと柔らかく微笑み、囁くように言った。
「また、いつか会えるよね」
カイゼルが何か言葉を返す前に、ラクリマの全身が霧にすっぽりと包まれ、そして砂のようにさらさらと消えていった。
「……お姉ちゃん……」
黒い霧はするするとリタの影の中に戻り、リタは泣きだしそうな顔をしながらカイゼルの元に歩み寄ってきた。
「カイゼル……これで、良かったの……?」
カイゼルはゆっくりと頷き、リタに隣に座るように促した。
「君がラクリマ君を完全に吸収したら……その時が、お別れですね」
「……うん」
リタはそっとカイゼルの腕に触れた。リタは今確かにここに存在しているのに、あと少しすればその体を失ってしまう。カイゼルはリタと言う存在を忘れないために、彼女の肩をそっと抱いた。
「僕は君の傍にいますから、君は自分の心の中でラクリマ君とお話してきたらどうですか?」
リタは少し迷う素振りを見せたが、自分の心に集中するために目を閉じた。ゆっくりともたれかけてきたリタを支えながら、カイゼルはまともに動かない足を空いた手で強引に座りやすい形に動かした。膝の痛みは酷いものなのだろうが、不思議とそれほど痛くは感じられなかった。
「……お疲れ様です」
リタに聞こえないほどの小さな声で呟き、カイゼルはリタの頭をそっと撫でた。