霧の涙 第十九話「別離 -thanks-」

「お姉ちゃん」
 何もない真っ白な世界の真ん中に、ラクリマは立っていた。リタに背を向けて立つその姿は、吸収されたというのにひどく落ち着いていた。
「リタじゃない」
 ラクリマは振り向いてふわりと微笑んだ。リタは思わずラクリマに駆け寄り、抱きついた。温かくて懐かしい匂いがした。
「……お姉ちゃん、ごめんなさい……カイゼルと一緒に、いたかったよね」
 自分で考えて下した結論とはいえ、リタは溢れてくる涙を抑える事が出来なかった。ただカイゼルと幸せに暮らしたい。ラクリマはそう願っていただけで何も悪くないのに、それをリタは奪ってしまった。
「……いいのよ」
 ラクリマはリタの頭を撫で、背中に手を回して抱きしめてくれた。
「リタに吸収されて、なんだか、色々なしがらみが全部無くなってスッキリした。お礼を言わなきゃいけないかもね」
「……どうしてお姉ちゃんがお礼を言うの」
 私はお姉ちゃんを殺したんだよ、と呟くがラクリマは限りなく優しい手つきでリタの頭を何度も撫でた。
「カイゼルと一緒に幸せに過ごすんだ、って考えに凝り固まってたのよ。幸せになりたいならもっと別の方法もあるのに、そうしないと幸せになれないって思い込んでた」
 リタが無言でいると、ラクリマはさらに言葉を続けた。
「……だから、カイゼルには随分迷惑をかけちゃったわ。一緒にいたいから殺そうとするなんて、本当に馬鹿ね」
 リタはそっとラクリマの腕の中から抜け出し、涙でぐちゃぐちゃになりながらも不器用に微笑んだ。
「……大丈夫、だよ。カイゼルは全部分かってて許してくれるよ」
「膝を砕かれても許すって、どれだけ心が広いのよ」
 ラクリマはぷっと吹き出し、それに釣られてリタも吹き出した。

「ねえ、リタ。お願いがあるんだけど」
「なあに?」
 リタが首を傾げると、ラクリマは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ちょっとだけ、リタの体を貸してくれない?」
「私の体を?」
 お願い、とラクリマは両手を合わせて拝むようにリタに頭を下げた。
「カイゼルとちょっとだけ、話がしたいのよ」
 ラクリマの真剣な顔を見て、リタはすぐに頷いた。カイゼルと会って話をしたい気持ちは、ラクリマの心境を考えれば痛いほど分かる。
 リタが頷くとラクリマは「やった」と指を鳴らしてふわりと白い世界から浮かび上がった。
「それじゃあ最期までカイゼルと話してくるから、リタとはこれでお別れかな」
「えっ……そ、そうなの?」
 リタは唐突な言葉に驚いてラクリマを追いかけようとしたが、ラクリマはそれを手で制した。
「じゃあね、リタ。大好きよ」
「お姉ちゃん」
 私もお姉ちゃんが大好きだよ、とリタが言いきる前にラクリマは白い世界から姿を消した。

 * * *

 見覚えのある暖かい色が目に飛び込んできた。パチパチとまばたきをすると段々焦点が合ってきて、暖かい色の正体は応接間の暖炉だと分かった。無事リタの体を借りる事が出来てラクリマが安堵の息を漏らすと、真横から「リタ君?」とカイゼルの声がした。ふとこの状況を見てみると、ラクリマはカイゼルの真横に座って肩を抱かれていた。何がどうなってこんな状況になったのかまるで見当がつかないが、肩から伝わるカイゼルの温かさが無性に嬉しかった。
「……カイゼル!」
 乙女らしい分別や恥じらいをかなぐり捨てて、ラクリマはカイゼルを力任せに押し倒した。リタが絶対しない行動な上に両足を負傷している事もあって、カイゼルはあっさりと仰向けに倒れた。
「リタ君?」
「なんだか、カイゼルに会うのが凄く久しぶりな気がする!」
 年甲斐もなくはしゃいでカイゼルの胸に顔を埋めていると、流石にカイゼルも状況を察して「ラクリマ君ですか?」と問いかけてきた。
「そうよ! ちょっとだけ、リタの体を借りてるの」
「……で、人の体を使って最初にする事は僕を押し倒す事なんですか」
 カイゼルはため息をつきながらも、起き上ろうともラクリマを体の上から追っ払おうともしなかった。ラクリマはひとしきりカイゼルの温かさを味わった後、顔を上げてカイゼルの目を見た。
「カイゼル、今まで迷惑かけたわね」
「そうですね」
「……そこは否定しなさいよ」
 ラクリマがぷうと頬を膨らますと、カイゼルはいつも通りの余裕に満ちた微笑を浮かべた。
「トゥラターレで殺されかけて、道中も亡霊に襲われて、つい先ほど両膝を滅茶苦茶にされて、今押し倒されてるのに「迷惑じゃない」なんて言えませんよ」
「それはそうだけど……」
 はあ、とため息をついてべったりとカイゼルの上にのしかかると、カイゼルはわしわしと頭を撫でてきた。
「あー気持ちいい。一生のお願いだからもっと撫でて」
「一度死んだ身で一生のお願い、とか言いますか」
 カイゼルは苦笑しながらも頭を撫で続けてくれた。

「……もうすぐ、ですか?」
 カイゼルの頭を撫でながらの問いかけに「そうね」とラクリマは小さく頷いた。
「寂しくなりますね」
「ラクリマ君がいないと寂しくて泣いちゃうよう、とか言わないでよね」
「ラクリマ君がいないと寂しくて泣いちゃうよう」
 茶化すような口調で言ってきたので、うつ伏せたままでカイゼルの顔をべちべち叩いた。
「……ね、カイゼル。私の事、好きですかー?」
 べちべち叩きながら、茶化すそうな口調で問いかけた。それなりに本気の質問だったが、真面目に問いかけるのは恥ずかしい。そんなラクリマに対し、カイゼルはべちべち叩く手を掴み、真剣な口調で答えた。
「好きですよ」
 ラクリマは反射的に顔を上げてカイゼルの表情を観察するが、そこには冗談を言っている雰囲気は無く、今までに見た事がないほど真面目な表情をしていた。
「……うわわわわっ!」
 予想外の反応にラクリマは全身が熱くなるのを感じ、カイゼルから離れようとした。が、カイゼルはラクリマの手を掴んで離さず、それどころか一気に引き寄せて両腕でがっちりとラクリマを抱きしめてきた。
「この僕を押し倒しておいて、ちょっと恥ずかしくなったら逃げようとするなんていい度胸ですね」
「ま、まま、待って、待ってよ温い暑い動けないんだけど!」
 ラクリマはじたばたと本気で抵抗するが、カイゼルはびくともしない。
「君みたいな小さな女の子の体で、僕に叶うと思うんですか」
「……小さな女の子を抱きしめる、ってロリコンじゃない」
 はあ、とため息をついてラクリマは抵抗する事を止めた。
「カイゼルとお付き合いできなくて残念だわ」
「それは僕も同感です」
 それならどうしてかつてラクリマが告白した時あんな事を言ったのだ、と責めたくなったが、カイゼルの事だからきっと何かを考えていたのだろう、と責める言葉は心の奥底にしまい込んだ。
「……また、いつかどこかで会えるわよね」
「どうしてそう思うんですか」
 考えてみてよ、とラクリマはカイゼルの腕の中でもぞもぞと動いた。
「私とリタはこれから転生する。カイゼルもいずれ、死んで転生するでしょ」
「まあ、それはそうですね」
「何度も転生を繰り返してたらさ、いつかまた三人で楽しく暮らせる人生が起こるかもしれないじゃない」
 勿論ラクリマやリタ、カイゼルの記憶は転生をした時点で失われる。それでも魂は変わらないのだから、きっと魂のどこかで、三人が再び巡り会えた喜びは感じられるはずだ。
「随分壮大な考えですねえ」
「そう考えなきゃやってられないもの」
 ラクリマはカイゼルにのしかかり、胸に顔を埋めて目を閉じた。抱きしめてくれる腕から、埋めた胸から、泣きたくなるほど優しい温かさが伝わってくる。
 ああ、本当に、幸せだ。
 ラクリマはそう実感し、眠るように意識は溶けていった。完全に意識が溶けきる寸前に、カイゼルの言葉が耳に届いた。
「おやすみなさい」

 * * *

 リタが再び目覚めて最初に感じたのは、どこか懐かしい温かさだった。目の前は真っ暗で何も見えず、状況がいまいち把握できなかったがもぞもと動くと「今度はリタ君ですか」とカイゼルの声がした。
「カイゼル?」
 リタが周りを確認しようとぺたぺたとあちこち触ってみると、どうやら誰かの体の上に寝転がっており、その人物から抱きしめられているようだった。その人物とは考えるまでもなく――
「……うわわわわっ!」
 予想外の事態にリタは全身が熱くなるのを感じ、カイゼルの腕から逃れようとした。が、カイゼルはリタの体をがっちりと抱きしめており、どれだけ抵抗してもびくともしなかった。
「そんなに慌てて逃げようとしなくてもいいじゃないですか」
「だ、だだっ、だって、どうしてこんな事になってるの!」
 ラクリマはあの短い時間で何をどうしてこんな状況を作り上げたのだ。姉の自由すぎる行動を少し恨めしく思いながら、抵抗するのを止めてじっとした。
「……もう、ラクリマ君は消えましたか」
「……うん」
 最期までカイゼルと話をする、と言ったのだ。こうしてリタが体の主導権を取り戻しているという事は、ラクリマが消えたのは間違いない。
「もう、私も消えるんだね」
 再び目覚めた瞬間から、ゆるゆると眠気が襲ってきていた。恐らく、眠ればリタの体は消えて数多の魂と共に転生を果たしに出発するのだろう。あれほど怖かった事なのに、不思議と体は震えず心には安心感が満ちていた。
「……カイゼル、ごめんね」
「何を謝る必要があるんですか。謝るのは僕の方です」
「なんだか、カイゼルに一杯迷惑かけた気がするの」
 そう呟きながら、ごめん、は少し言いたい事からずれるなと感じた。もっと自分の気持ちに近い言葉は――

「――ありがとう」

 リタはカイゼルの胸に顔をうずめ、ゆっくりと目を閉じた。自分の記憶が、体が、少しずつ形を失っていくのが分かった。少しずつ、無垢な魂へ戻っていく。
「……どうして、君がお礼を言うんですか」
 カイゼルの腕が、わずかに震えていた。何かをこらえるかのように震え、リタの体を強く抱きしめていた。
「リタ君」
 そう呼びかけるカイゼルの声も、震えていた。今にも泣き出しそうな声で、カイゼルもそんな声を出すのかと少し意外に思った。リタは何も言わずにより強くカイゼルの胸に顔を埋めた。きっと今、リタが何か言えば、カイゼルの顔を見たら、別れが惜しくて大泣きしてしまう。
 少しずつ、体の感覚が無くなっていく。カイゼルがそこにいるのかどうかも分からなくなってくるが、リタが消える瞬間まで強く抱きしめてくれているだろうと信じていた。
 視界が真っ白に染まり、リタは全身の力を抜いた。ふわりと宙に浮くような浮遊感があり、まるで陽だまりの中で昼寝をするような気持ちよさがあった。何もない真っ白な世界の中で、カイゼルの声が耳に届いた。
「おやすみなさい」
 おやすみなさい――リタは小さく呟き、長い長い眠りに落ちた。

←Back Next→