霧の涙 第三話「能力 -cutlet-」

 森と草原、申し訳程度に踏み固められた道しか見えない風景の中、リタはカイゼルのやや後ろをついて歩いていた。半ばその場の勢いで旅に出ることを決意したが、今になって未練の気持ちがむくむくと起き上っていた。村の誰とも別れの挨拶をせずに出発してしまった。誰かにせめて一言だけでも、何かを言っておきたかった。
「……後悔、していますか?」
 カイゼルが前を向いたまま声をかけてきた。リタは少し考えた後「ううん」と返した。
「村の誰かも、魂を抜かれちゃったんでしょ? だったら私が、助けなきゃ。今まで皆に助けられたから、今度は私が助ける番」
 カイゼルには見えていないことは分かっているが、リタは笑顔を浮かべた。するとカイゼルは振り返ってリタに対して軽く頭を下げた。
「……村の方々と何の挨拶もさせることなく連れ出してしまって、すみません」
「……うん」
「本当ならちゃんと挨拶させるつもりだったんですが、予想よりも早く援軍が来てしまいました……完全に、僕のミスです」
「援軍?」
「オーロ君とネーロ君が亡霊を退けたでしょう。それを察知した他の亡霊が来ていたんです」
 助けるためではなく、人を襲うために。
「援軍と言うか、取りこぼしを拾いに来たハイエナって感じですね」
「……それじゃあ、村の人達は? 大丈夫なの?」
「はい。オーロ君とネーロ君がそいつらも退けてくれています。君をあの山小屋まで送った後すぐに村に戻ったのは、そのハイエナ退治と村人達への説明のためですね」
 リタはちらりと後ろを振り返った。少し離れたところをオーロとネーロが雑談をしながら歩いている。
「……オーロとネーロは凄いね。私より少し年上なだけなのに、亡霊をやっつけてたくさんの人を助けることができる」
「彼らにはそれなりに経験がありますからね。君も、いずれたくさんの人を助けることができるようになりますよ」
「……ほんと?」
 リタがカイゼルを見上げると、カイゼルはリタの頭を撫でて微笑んだ。
「君は君が思っている以上に、大きな力を秘めているんですよ」

 * * *

 街どころか民家の一軒も見えない自然の中をひたすら歩き続けた。時たま休憩をとるが、それ以外の時は本当にただ歩くだけだった。カイゼルの話では、少なくとも丸一日は歩き続けないとトゥラターレの街には辿りつかないらしい。
 普通の村人として生活していたリタの体力はあっという間に尽きたが、リタはそれでも棒のようになった足を動かして前に進んだ。そんなリタの様子を見てか、カイゼルが「もう今日はここで野宿しましょう」と提案してくれたがリタはそれを断って歩き続けた。
 何故そこまでして歩こうとするのか、リタ自身にもよく分からなかった。村の人達を救いたいという気持ちからなのか、誰も疲れていないのに自分だけが根を上げるのが嫌なのか、判然としない。

 歩くことだけを考えて進み続け、気づけば日が暮れかかっていた。いつの間にか辺りから森は消えており、代わりに大きな岩が草原の中に点在していた。オーロとネーロがちょろちょろと岩をチェックして回り、「ここら辺がいいかも」と身の丈ほどもある巨大な岩の陰から大きく手を振った。
「いいかもって、何が?」
 リタの問いかけに対し、カイゼルはリタの手を取ってその岩に向かいながら答えた。
「野宿の場所ですよ。もう日が暮れますし、今日はそこの岩陰で野営します」
 カイゼルはリタを岩陰に座らせ、てきぱきとテントを張り始めた。リタも手伝おうとしたが「リタ君はゆっくり休んでいてください」と断られた。
「でも、私もなにかしないと」
 リタは立ち上がろうとしたが、カイゼルがそれを手で制した。
「君の今の仕事は足を休めることです。今日の疲労は今日中に取り去って、明日に持ち越さないこと」
 カイゼルの有無を言わさない言葉に押され、リタは岩陰に背をつけて座り直した。岩の心地よい冷たさと、辺りを抜ける夕風の涼しさがリタをリラックスさせた。
 リタが見ている中でカイゼルはあっという間にテントを二つ設置し、紅茶を淹れるための水を火にかけた。水が沸騰するまでの間は暇なのか、カイゼルはリタの隣に座って「風が涼しいですねえ」とリタに笑いかけた。
「そういえば、オーロとネーロは?」
「晩御飯を獲りに行ってますよ。今日は村で何か調達していたようですから、それほど時間はかからないかと思います」
 ふうん、とリタは呟いて目の前の火を眺めた。ちろちろと揺らめく火はきれいだった。
「野宿って初めて」
 リタの呟きに対して、カイゼルは「そうですか」と呟きを返した。
「ネーロ君と同じテントで寝てもらいますので、何か困り事があったらネーロ君に相談してくださいね。あれでも一応リタ君と同じ女の子で、それなりに旅慣れしていますから」
「あれでも、ってひどいね」
 カイゼルの遠慮も何もない言い草にリタはくすくすと笑った。

 お湯が沸いて紅茶が用意できた頃になると、どこからともなくオーロとネーロが帰ってきた。「今日はもう木の実だけ採ってきた」と二人が声を揃えてそれぞれが持つ小さな麻袋を意味もなく振り回した。麻袋の中にある小さな木の実ががさがさと音を立てる。
「木の実だけ? 随分おざなりなものですね」
 カイゼルの若干の毒を含んだ言い方に対し、オーロはふふんと得意げな笑みを浮かべた。
「実は村でいいもん貰っちゃってさあ」
 オーロは麻袋の中をまさぐり、「じゃじゃーん」と効果音を言いながら袋の中身を引っ張り出した。中身と言っても出てきたのは長方形の紙の箱で、それがなんなのかは傍目からではまだ分からない。
「あ」
 しかしリタにはそれが何か分かった。その箱の表面に描かれたマークはリタが毎日見ていたものだった。
「なんかな、村の人らに色々説明をしたらパン屋のおっさんがくれたんだよ」
 オーロは箱の蓋を開けた。その中には、たくさんのカツサンドがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。ソースの良い香りがふわりと辺りに漂う。
「……クロスタおじさん……」
「知り合い?」
 ネーロの問いかけに対し、リタは小さく頷いた。
「それでかあ。あのおっさん、リタの事をすげえ気にかけてたぜ。あんまりしつこいもんだから、あのおっさんにはリタが俺らと旅に出たってことは説明しといた」
「そしたらカツサンドくれたんだよね。リタはこれが大好きだから持って行ってくれ、って」
 リタは箱からカツサンドを一切れ取り出し、一口かじった。パンと野菜、そしてさっくりとしたカツに染みるソースの味が広がり、リタの目から無意識のうちに涙が一筋こぼれ落ちた。
「……美味しいですか?」
 カイゼルもリタを気にかけつつもカツサンドを一つ取った。そして一口かじって「ふむ、なかなかですね」と感想を漏らした。その感想につられてか、オーロとネーロもカツサンドを一口かじった。
「おお、確かにうまい」「これは大好物になるのも分かる」
 採ってきた木の実などそっちのけで誰もがカツサンドを頬張り、その美味しさに笑顔を浮かべた。
「……私ね、ずっと前からこのカツサンドは大好きなの」
 確か最初は売れ残りを食べさせてもらったのがきっかけだ。それ以来、このカツサンドはずっとリタの中で一番好きな食べ物であり続けている。
「でも、今日食べたカツサンドが今までで一番おいしい」
 今まで食事はずっと一人で食べてきた。その事に対して何の疑問も抱かなかった。でも、誰かと一緒に食事をする。それだけで同じ食事なのに味は格別のものになる。大好きなカツサンドが、今まで以上に好きになる。リタは今、初めてその事を知った。
「本当に……おいしい……」
 リタは目を細めて、カツサンドを頬張った。

 * * *

「あれ」
 カツサンドを食べ終え、木の実を食べようとネーロが麻袋に手を伸ばした時、その異変に気がついた。
「どした?」
「袋が増えてる」
 ネーロが指し示した先に、三つの麻袋があった。一つはオーロとネーロが拾ってきた木の実が入った袋、一つはカツサンドを入れていた袋、そして最後の一つが全く身に覚えのない袋だった。ネーロはその身に覚えのない袋を取り、上下に振った。何かが入っているのか、がさがさと音がする。
「何だろう、これ」
「開けてみたらどうですか?」
 カイゼルが事もなげに言うが、ネーロはううんと唸りながら渋い顔をした。
「嫌だなあ、この袋を開けるのは何だかひどく嫌だなあ!」
「でも中身が気になるから、開けちゃおうよ」
 リタがそう促すと、ネーロはひどくためらったが「えいやっ」と掛け声をあげて一気に袋を開いた。

 その瞬間、袋から無数の鳩が飛び出した。うるさいばかりの羽音を立て、白い羽がリタの視界を奪う。何故袋から鳩が、と考えるよりも先に鳩の群れはどこかへ飛び去って行き、残された袋の傍に見知らぬ青年が立っていた。
 紫の髪の上にシルクハットを被り、真っ赤な燕尾服を身にまとった青年だった。両頬には涙と星のペインティングが施され、耳は尖っていた。青年は満面の笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」
 どこからともなくカラフルな紙吹雪が舞い、青年の登場を華やかに盛り上げたが、
「いや、呼んでねえ」「呼んでないよ」「呼んだ覚えはありませんね」
 呆気にとられているリタを除いた三人の反応は冷たかった。青年は「がーん」と露骨に肩を落とし、勝手に袋を開けて木の実をかじった。
「待ちきれなくて会いに来てあげたというのに、そんな冷たい反応はないじゃない……」
「勝手に木の実をかじらないでください。君はどこの害獣ですか」
「またまた、がーん」
 青年はがっくりとその場に倒れ、うねうねと奇怪な動きをしながらリタの傍に寄ってきた。リタはその場に座ったまま、青年と目があった。今まで会ったことのないタイプの人間を前にして、リタは動くことができなかった。
「君は? 新しいお仲間さん?」
「……あ、はい。リタです」
「そーかそーか、リタちゃんね。分かった! それじゃあ僕も自己紹介を」
 青年はすっくと立ち上がり、ポケットからするりと杖を取り出した。どう見てもポケットに入るサイズではないのだが、リタはその疑問については流した。
「えー、僕は驚き桃の木感動プレゼンターマジシャンこと、ジョーカーでーっす! 特技はマジックと手品と奇術! 以後よろしくねー!」
「……マジックと手品と奇術って同じじゃない?」
「細かいことは気にしない! はい、出会った記念にお花プレゼントー」
 ジョーカーが杖を軽く一振りすると、その杖が一瞬の間に一輪の花に変わった。優雅な手つきで渡された花を、リタは目の前で繰り広げられた手品に呆気にとられながらも受け取った。
「ねえねえ、リタちゃんはどうして仲間になったの? カイゼルにそそのかされたの? 全くカイゼルはナンパ魔で困っちゃうよねー! あんな顔して結構」
「誰がいつどこでナンパをしたのか懇切丁寧に教えていただきたいですね」
「あっれーいつからそこにいたの! 全然気付かなかったよ、まさか伝説の少数民族「シノビ」の末裔だったりする?」
「君はいつも無駄にテンションが高くて困りますね。リタ君が怯えるでしょう」
 怯えるというか、呆気にとられていたのだがリタは口を挟まなかった。というか、挟めなかった。
「テンションが低い僕なんて想像できないね! ありえないよ!」
「……リタ君、ジョーカー君の事は適当にあしらうのが一番ですので、これを機に人生修業の一環として人のあしらい方を覚えましょうね」
「……う、うん」
「うわあん、いじめだ。カイゼルのいじめっ子ー! 前から知ってたけど!」
 大粒の涙を流して走り去ろうとするジョーカーの首根っこを、カイゼルががっしりと掴んだ。ばたばたと暴れるジョーカーをきれいに無視して、カイゼルはリタに微笑を浮かべた。
「信じがたいかもしれませんが、このジョーカー君が以前お話しした「黒い霧」等の事に詳しい仲間です。遠慮なくその辺のことについて訊くといいですよ」
「え」
「ジョーカー君、「能力」についてリタ君に教えてあげてください」
 カイゼルはジョーカーをリタの前に座らせ、有無を言わさない調子で肩を叩いた。ジョーカーは涙をわざとらしくぬぐい、「うん、分かった」と笑顔を浮かべ、シルクハットからぽいぽいと人形やボールやよく分からない物を取り出し始めた。
「それじゃあ人形劇と手品を交えてドキドキワクワクのストーリー仕立てで説明を」
「普通に話してください」
 カイゼルがぴしゃりと言葉を挟み、
「……えっと、普通に話してくれたらいいよ」
 リタも追い打ちをかけた。

 * * *

「じゃあそうだね……普通に話すけど、リタちゃんは何で僕にそういう事を聞こうと思ったの?」
 ジョーカーが木の実を食べながら、つまらなそうに話を切り出した。リタは今まで体験したことを説明した。説明は二度目だからか、以前よりかはスムーズに話せた。所々でジョーカーの質問を挟んだが、それほど時間をかけずに説明はできた。
「なるほどね。リタちゃんは自分の影から出てきた黒い霧の正体を知りたいと」
「うん」
「……うーん、黒い霧が何をしたのかは僕にも分からないけど……一つ確実に言えることは、リタちゃんが元々持ってた能力が発現したんだよ、それは」
 そう言われても全く分からない。リタが首をひねると、ジョーカーが言葉をつづけた。
「ちょっと信じられないかもしれないけど、誰もが不思議な「能力」を自分の影に宿しているんだ。大体は能力に目覚めないまま一生を終えるんだけど、たまに能力に目覚める人がいるんだ」
 そのたまに目覚める人がリタちゃんだ、ってこと。ジョーカーがぴしっとリタを指さした。
「怒りや憎しみがきっかけだったり、「能力」による攻撃を受けるのがきっかけだったり、まあ目覚める要因は色々あるんだけど、何か心当たりはある?」
 リタは村での生活を思い返したが、それらしいことは何もなかった。何の変化もない生活を送っていたのだから当然だ。
「……村では、何もなかった」
「村では? それじゃあ、村以外で何かあった?」
 リタは村で暮らす以前の事を思い出そうとしたが、予想通りの結果だった。リタはぽつりと言葉をこぼす。
「……思い出せないの」
 今まで何回も思い出そうとした事はあった。でも、何かを思い出すことは全くなかった。何故村で暮らしているのか、両親はいるのか、兄弟はいるのか、何もかもが分からないまま村での生活を続けていた。
 リタが記憶喪失であると知ると、ジョーカーは「あらまあ」と漏らした。
「それじゃあ、村で暮らす前に何かあったのかもしれないね」
「うん……」
 深刻な表情のリタに対し、ジョーカーは「まあ良かったじゃん」と能天気にリタの肩をたたいた。
「良かったって、何が?」
「こうやって旅に出たらさ、ふとした瞬間に何か思い出すかもしれないよ。村で何もしないよりかは、旅をする方がずっと刺激になる」
「そんなものなのかな」
「そんなものだよ。ほーらスマイルスマイル! 何でも良い風に捉えないと人生損するよー」
 ジョーカーの底抜けに明るい笑顔を見て、リタもほんの少しだけ微笑んだ。

「……あの、ひょっとしてオーロとネーロも「能力」を持ってるの?」
 亡霊を倒した時、オーロとネーロはそれぞれ大鎌と鎖をどこからともなく出していた。あれはよく思い出してみれば、影から大鎌と鎖を出していたような気がする。その疑問をジョーカーにぶつけると、木の実を食べ終えて暇そうに口から万国旗を出していたジョーカーは事もなげに「そうだよ」と肯定した。
「まああの二人は何かゴタゴタがあって、とかじゃなくて単に僕が能力を引き出してあげただけだけど」
「能力を引き出す?」
 言っている意味が分からないと顔で訴えると、ジョーカーは手を自分の影の中に入れ、
「そう、僕の能力で」
 するりと影の中から一振りの大きな鍵を取り出した。影の色に似た真っ黒な色で、切っ先が鍵状になった剣と言っても問題は無いほどの大きさだった。これも手品の一種かと思いきや、ジョーカーの表情からするとそうでもないらしい。
「鍵?」
「そう、鍵」
 ジョーカーはぶんぶんと大きな鍵を振り回し、宙に向かって何かを開閉する動作をしたりした。
「鍵だから、色々なことを開け閉めできるんだ。ドアや宝箱だけじゃなくて、もっと抽象的なこともね」
 その気になれば空間を開くことも、人や亡霊を開くことも出来るよとジョーカーは言ったが、それがどういうことに繋がるのかリタにはいまいち分からなかった。
「オーロとネーロの能力は、僕がこの鍵で「開放」した。だから、二人は能力が使える」
「……ふうん?」
 明らかに分かっていない様子のリタにジョーカーは苦笑したが、それ以上の説明は続けなかった。
「まあそんなところだよ。二人の能力について詳しい事が知りたかったら、僕よりも二人に聞いた方がいいよ」
「……うん」

 言葉が途切れ、リタが木の実をかじっていると隣でジョーカーが感慨深げに呟いた。
「これで五人かあ。五人とも能力持ちだなんて珍しいこと!」
「……五人、とも?」
 リタが木の実を食べる手を止めると、ジョーカーは「あれ、知らなかった?」と意外そうな顔をした。
「カイゼルも「能力」持ちだよ。しかも僕が開いたわけじゃない」
 リタは反射的にカイゼルがいる方に目をやった。彼は今オーロとネーロに様々な妨害をされながらも読書にふけっていた。
「カイゼルに、何かあったの?」
「さあ? 聞いてもはぐらかされるばっかりで全然教えてくれないんだ」
 ひどいよねえ、とぷりぷり怒るジョーカーの隣で、リタはカイゼルの横顔を眺めた。
 カイゼルの身に起きた「能力」が目覚めるほどの出来事とは何だろうと思いを巡らせるが、リタには全く想像がつかなかった。

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