霧の涙 第四話「取引 -pacifist-」

 トゥラターレは元々は町と言うより、行商人の溜まり場のような場所だった。東西南北の都市からやってきた行商人達がその場所で取引を行い、得たものを町に持ち帰り高値で売る。それを繰り返すうちに取引の規模が大きくなり、取引を行う場所にテントが張られ、家が建ち、商店が生まれ、やがて一つの町としてトゥラターレは誕生した。
 そのような経緯で生まれた町なので、トゥラターレは商業が非常に活発だ。様々な地方からやってきた行商人達が露店を開き、一流品から見るからに怪しいものまで、古今東西の品物がこの町で手に入る。勿論行商人の中にはまがいものや不良品を売りつける者もいるため、鑑識眼を持っていなければ大抵ひどい目に遭う。
 あらゆるものが手に入る可能性に溢れた町。そして同時に、あらゆるものを失う可能性に溢れた町でもある。

「……大体、こんなところですかね」
 大まかな町の説明を終え、カイゼルは振り向いて全員の顔を確認した。リタはカイゼルの言葉を真剣に受け止め、オーロとネーロは話半分に受け止めて買い物への欲望を高め、ジョーカーはそもそも話をちゃんと聞いていないようだった。
「まず宿を確保して、その後の必要なものの買い出しは僕とジョーカー君がします。リタ君とオーロ君とネーロ君は今僕が言った事に気をつけて、この町を楽しんでおいてください」
 カイゼルは再び前を向いた。周りには大きな荷物を背負った行商人がぞろぞろと歩いており、全員がこの道の先にある巨大な市場を目指していた。
「ジョーカーが買い出し一緒に行くの?」
 リタが意外そうな声を出した。確かにあの第一印象では意外に思うのも無理はない。当のジョーカーはリタの横で不満げに唇を突き出していた。
「えー、僕も好き勝手冒険したいのにー」
「ジョーカー君、僕は君の観察眼を買ってるんです。冒険は買い出しの後で好きなだけさせてあげますから、僕の手伝いをしてください」
 ジョーカーはむくれながらも頷き、オーロとネーロは対抗意識を燃やしたのか、リタを押しのけてカイゼルの目の前に立った。
「俺達だって観察眼はあるつもりなんだけど」
「……信じられませんね、何か具体的な実績でも挙げていただけますか」
 オーロとネーロは顔を見合わせ、そして同時に言った。
「「腐ってるかどうか、毒はあるかないか、とか食べ物で生死に関わることを見分けるのは得意」」
 カイゼルは二人の顔を見るが、どうやら嘘ではないらしい。
「……君達はどんな人生を歩んできたんですか」

 * * *

 町に入ってすぐの場所に建っていた宿屋を確保し、カイゼルとジョーカーはすぐさま町の中心部に向かった。居残りの三人にはもう一度町の危険性を説いて釘を刺しておいたが、やはりまともに話を聞いたのはリタだけだった。
「オーロ君とネーロ君に話を聞かせるというのは、難しいものですね」
 町の中心部に近づくにつれ人の密度が高まっていく。カイゼルは人の流れの中をひょいひょいと進みながら呟いた。
「まあねー。あの二人が言う事を聞くのは、あの二人のお母さんぐらいだよ」
 ジョーカーもまた流れの中を進み、カイゼルの後ろにぴったりくっついている。
「お母さん?」
 カイゼルが二人と出会ったのはそれほど昔ではなく、ジョーカーが二人を連れているところを偶然出会ったものだった。なので彼らの母親の事は初耳だ。
「僕はちょっとしか話をしてないけど、なんか強そうなお母さんだったよ」
「腕っ節が、ですか?」
「んー、ちょっと違うかな。華奢なんだけど、有無を言わさない迫力があるというか」
 なんて言えばいいのか難しいなあ、とうんうん唸るジョーカーをちらと見ながら、カイゼルは苦笑した。
「まあ、あの二人を御するんだから相当「強い」ことは分かりますよ」
 いよいよ混み合ってきた人混みの中、カイゼルは当面の旅に必要なものを売っていそうな商店を探し始めた。

 買い出しと言ってもそれほど大量の品物を買う予定はなかった。日持ちする食料品や紅茶の葉、その他諸々の日用品を買うだけだった。商店には多種多様な品が雑然と置かれており、ジョーカーは珍しいものがあればいちいち反応していたが、カイゼルはそんなジョーカーを無理矢理引っ張って町を歩いた。
 品質の良いものを安く買う。そんなこだわりを持って町を歩けば、この混沌とした市場では時間をかければかけるほどそれに見合った成果が得られることもある。しかしカイゼルはそれほど強いこだわりを見せず、並の商品を買っていった。
「ねえ、あっちの店でもっと安く売ってたよ」
 とジョーカーから知りたくもない情報を教えられることもあったが、カイゼルは露骨に悔しがることはせず、穏やかな微笑みの裏で密かに己の運の悪さを嘆いた。

 買い物をしながら町の中心部をひたすら進み、中心部を突き抜けてやや人混みが和らいだところでカイゼルは買い物用の鞄の中身を確認した。ごちゃごちゃと色々なものが詰め込まれているが、これで必要なものは揃った。
「買い出しは終わりです。ジョーカー君、付き合ってくれてありがとうございました」
 カイゼルは軽く頭を下げ、ジョーカーは「お疲れさまー」と珍しくカイゼルをねぎらった。
「ジョーカー君はこれから町を冒険するつもりですか?」
「うーん、一旦宿屋に戻りたい気もするんだよなあ、揺れ動く男心ってやつ」
「それはまた、揺れ動いても嬉しくもなんともないものですね」
 だよねえ、とジョーカーは笑いながら町の中心部に足を向けて「とりあえず、どっかその辺でお茶でもしようかな」と辺りを見回した。
「それはいいですね。僕もご一緒していいですか?」
 人混みの中を歩き回って、少し喉が渇いていた。冷たい紅茶が飲みたい。少しのクッキーがあればなお良い。カイゼルも一緒になって辺りを見回し、中心部の人混みの中にそれらしき店を見つけた。
「ありました。行きましょう」
「おーう! 面白いメニューないかなー」
 カイゼルとジョーカーは喫茶店を目指し、再び人混みの中へ身を投じた。

 その後に続くように何者かが人混みの中に入って行った事に、カイゼルもジョーカーも気づかなかった。

 * * *

 町の中心部に居を構える喫茶店だけあって、店内も人でごった返していた。席は全て埋まり、立ち話をしながら紅茶やコーヒーを飲む者もいれば、席が空くのをじっと待つ者もおり、そういった客の間を店員が慌ただしげに歩き回っていた。
 カイゼルとジョーカーは邪魔にならないように店内を歩き回りながら、空きそうな席を適当に見つくろってその近くで待った。ずっと歩き回っていただけに、立ち飲みで済ませたくなかった。
「大都市は休憩するのも大変ですねえ」
「だよねえ。かといって客が一人もいない店も入りづらいけどね」
 店の壁に掛けられたメニューを見ながら他愛もない雑談をして時間を潰し、そろそろ立っているのが辛いと感じ始めた頃になって目をつけていた席の客が店を去った。カイゼルとジョーカーは素早くその席に座り、通りがかった店員に注文をした。カイゼルは冷たい紅茶とクッキー、ジョーカーは聞いたこともないような銘柄の飲み物を頼んだ。
「……変なものを頼みましたね」
 店員の後姿を眺めながらカイゼルが呟くと、ジョーカーはまあねー、とどこか得意げに返した。
「普通の飲み物は飲み飽きちゃって。色々珍しいのを試してみるのは面白いよ」
「珍しいものに触れるのが面白いのは、僕も分かりますけど」
 それを飲み物で実践する気になれない。言外にそういう意味を込めた。
「カイゼルはいっつも紅茶とクッキーだね。飽きない?」
「紅茶とクッキーの組み合わせが脳の働きを最も活性化させるんですよ、僕の場合」
 たまにコーヒーや酒を嗜む事もあるが、紅茶とクッキーが一番落ち着く。銘柄は問わないが、休憩する時はそれらを飲み食いしないと落ち着かない。ちょっとした依存だとカイゼル自身そう思っていた。
「子供の頃から紅茶とクッキーが好きなの? てか、カイゼルに子供時代ってあったの?」
「失礼な、僕にも子供時代はありましたよ。その頃から紅茶とクッキーは好きでした」
「カイゼルの子供時代かあ」
 しばらくジョーカーは宙に目をやっていたが、
「駄目だ、全然想像できない」
 諦めて頭を左右に振った。

 そうしているうちに注文した品が届き、カイゼルは冷たい紅茶を一口飲み、ジョーカーは何とも言えない色をした液体を一口飲んだ。冷たい紅茶の味に一息ついたカイゼルの横で、
「これはまずい」
 とジョーカーは大げさに舌を見せた。
「下手に冒険するからそういう目に遭うんです」
 慣れ親しんだ紅茶の味を楽しみながら、憐れみの目をジョーカーに向けた。
「ううう、でも美味しかった時の感動は計り知れないよ。全人類が涙するよ」
「誇張表現にも程があります」
 せめてもの慰みにとクッキーを一枚渡すと、ジョーカーはふてくされた表情でぼりぼりと食べた。
「……ねえ、この町を出たら次はどこに行くの? 予定があまりにも分からなすぎてちょっと困るんだけど」
「次、ですか。そうですねえ」
 カイゼルはコートのポケットから地図を取り出し、隣に座る人の迷惑にならない程度に広げた。
「基本は北を目指します。状況次第で多少時間がかかるかもしれません」
「状況次第、ねえ」
 ジョーカーは不味そうに怪しい飲み物を飲みながら意味ありげに頷いた。「あれは難しいもんだからね」
「まあ、のんびり楽しんでいきましょう」
「だね! 明るいのは得意だから任せてちょ」
「君は無駄に明るすぎます」
 カイゼルが地図をたたむと、隣に座っていた客が席を立ち、入れ替わるように一人の男がその席に座った。そして座るなり、
「カイゼルさんだよね?」
 と親しげに話しかけてきた。

 茶髪で人畜無害な微笑を浮かべるその男は、極めて平凡な印象だった。カイゼルは記憶力が良い方だがその男は全く記憶になかった。
「ええと、どちら様ですか?」
 初対面の男にいきなり馴れ馴れしい口を叩かれ、若干の不快感を顔に出すと茶髪の男は笑顔のまま「ああ、そうかそうか!」と一人で何かを納得していた。
「こうやって会うのは初めてだね。俺はカイゼルさんの話はよく聞いてたから、初対面じゃないような気になってた」
「僕は君の事は何一つ知りません。自己紹介、それと用件を述べていただけると有難いですね」
 茶髪の男は何も言わずにカイゼルのクッキーを一枚取ろうとしたので、カイゼルはその手を叩いた。
「じゃあお言葉に甘えて自己紹介と用件を。俺の名前はセガ・ヴェキア。今回はある人の命令でカイゼルさんに会いに来たんだ」
「……ヴェキア、ですか」
 どこかで聞いた事のある名だったが、どうにも思い出せない。要するに、その程度のどうでもいい人物だろう。
「それで命令って? 勝手にクッキーを取って食べてこいとか?」
 そう言いながらもジョーカーがクッキーに手を伸ばしたので、カイゼルはその手も叩いた。
「あはは、そんなんじゃないよ。カイゼルさんを連れてこいって言われてるの。こんな街中じゃなくて静かなところで話し合いたいんだって」
「それは何とも」
「怪しいねえ! そこはかとなくロマンスの香りもするけど、危険な香りの方が濃厚だね」
「大体、君を僕の元に遣ったその人の名は何です。それが分からないと返事はできません」
 不信感を露わにした二人を前にしても、ヴェキアはにこにこと人畜無害な笑みを絶やさなかった。そしてその笑顔のまま、カイゼルの耳元で囁くように言った。

「ラクリマ」

 カイゼルの耳元から離れて席に座り直したヴェキアの隣で、カイゼルは驚きに目を見開いていた。そのカイゼルの様子を見てか、ヴェキアの囁きが聞き取れなかったジョーカーがぷりぷりと怒った。
「な、なんだよう、何言ったんだよう! 気になるじゃない!」
「……君は、知らなくてもいいことです」
 カイゼルは紅茶を一口飲み、ヴェキアと向き合った。
「それで……仮に、行きたくない、と言ったら君はどうしますか?」
 カイゼルの問いに、ヴェキアは笑顔を崩さないままに左手を後ろにやり、ジョーカーにも聞こえるような声を出した。
「この町は、色々なものが売ってるよね。それこそ、この世にあるもの全て」
「そうですね」
「この世にあるもの全て、だよ? それじゃあさ」
 ヴェキアは左手を前に出し、カイゼルにもよく見えるように「それ」を突き付けた。
「人間だって売り買いできるんだよ」
 小さな黒い球体の中に、一人の人間が入っていた。物理法則をまるで無視していたが、それは紛れもなく本物の人間だった。球体の中で丸まって眠っているのは、カイゼルがよく知る、黒い髪に白い服の少女だった。
「ネーロ君」
 どうして、と呟くよりも先にヴェキアは黒い球体を服の中にしまい込んだ。
「若い女の子はすごく良い値段で売れるんだよ。知ってた?」
 富裕層がいくらでも高値を付けて買ってくれる。買われた少女はどのような目に遭うかは、火を見るより明らかだ。
「俺、今お小遣いがピンチなんだよね。ここらでちょっと稼いでおきたい気もするなあ」
「……卑怯な真似を、しますねえ」
 カイゼルが微笑を浮かべると、ヴェキアも同じような微笑を返した。
「俺、平和主義だから。暴力なしで話をつけるのが一番平和的だよね」
「とんだ平和主義者ですね」
 カイゼルは紅茶を飲みほし、席を立った。
「君についていけば、ネーロ君を解放するんですか?」
「そうだね、今回は諦めてお小遣いはまた別の機会に稼ぐとするよ」
 ヴェキアの答えを聞き、カイゼルははっきりと頷いた。
「分かりました。君の言う事を聞いてあげましょう」
「カイゼル!」
 カイゼルの返答にジョーカーが誰よりも早く反応した。がたんと椅子を揺らして立ち、カイゼルの肩をつかむ。カイゼルはその手を払いのけ、ちらりとヴェキアの様子を窺いながらもジョーカーを睨みつけた。
「君はネーロ君を保護、宿まで連れて行ってあげてください。そして、この件については皆に話さずに適当に誤魔化すこと」
「駄目だよ、カイゼル一人でどうするつもりなの?」
「こうしなければ、ネーロ君は助からないんです。僕一人でどうにか乗り切ります」
 カイゼルはヴェキアの方を向き、軽く頭を下げた。
「取引は必ず守ります。なので先に、ネーロ君を解放していただけますか」
「うーん、どうしようかなあ」
 ヴェキアは笑顔で首を傾げていたが、手を服の中に入れて黒い球体を取り出した。
「ま、いいよ。カイゼルさんは取引は必ず守る人だって知ってるから」
 黒い球体をヴェキアが指で軽くつつくと軽い破裂音が鳴り、次の瞬間カイゼルにもたれかかるようにしてネーロが姿を現した。意識は失っているが外傷は無く、ただ眠っているだけに見えた。
「ちょっと大人しくさせただけだから、そのうち目を覚ますよ」
「それはご丁寧にどうも」
 ネーロをジョーカーに渡し、
「ではジョーカー君、後はよろしく頼みます。……コーヒーの買い出しも、お願いしますね」
 カイゼルはヴェキアと共に喫茶店を後にした。

 * * *

「ねえ、どうして適当に誤魔化せとか言ったの?」
 ヴェキアが人混みを掻き分けて進みながら不意に質問を投げかけてきた。カイゼルははぐれないようにぴったり彼の後をつきながらも答える。
「こういう事は、あの子達は知らなくても良いんです。それだけのことですよ」
「ひどいなあ。仲間なのに隠し事とかするんだ?」
 けらけらとヴェキアは笑う。人混みを通り抜けて路地裏に入り込むと人はまばらになり、随分歩きやすくなった。
「僕に仲間なんていませんよ」
 迷路のような道を歩きながら、カイゼルは当然のように答えた。彼らは大切な取引相手ではあるが、仲間ではない。
「ドライだなあ! さすが冷血研究者」
「褒めても何も出ませんよ」
 路地裏を進むにつれて道端に落ちるゴミの量は増え、無言でうずくまるやせ衰えた人を見かけることが多くなった。そんな人達を全く気にかけず、ヴェキアはどんどん進んでいく。
「冷血でも「取引」だけはちゃんと守ってくれるからありがたいよ。手駒を無くした俺にちゃんとついてきてくれる」
「小汚い手を使う君と違って、優しいでしょう?」
「うーん、小汚いだなんてそんな……褒めなくても良いのに」
 何度も道を曲がり、並の人間ならとっくに現在位置が分からなくなる程複雑な道のりを辿り、ある曲がり角の前でヴェキアは足を止めた。
「ここだよ」
 この先にいるから会ってきてね、と言ってヴェキアは壁にもたれて煙管をくわえた。カイゼルは無言でヴェキアの前を通り、角を曲がった。

 曲がり角の先は行き止まりだった。木箱や酒の瓶が無造作に散らばり、壁にはよく分からない落書きがされていた。その壁にもたれかかりながら木箱に座っていたのは、一人の女性だった。
 翡翠色の長髪を結い、彼女は穏やかな微笑を浮かべていた。汚れ一つない服装は周囲の環境からひどく浮いている。彼女はカイゼルの姿を認めると、ぱっと花が咲いたように笑った。
「カイゼルじゃない!」
 そんな彼女の笑顔に合わせるように、カイゼルも微笑を浮かべた。様々な感情が露出しそうになるが全てを抑えつけ、片手を挙げて親しげに挨拶をした。
「お久しぶりです。……ラクリマ君」

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