霧の涙 第六話「邂逅 -rupture-」

 路地裏特有の汚さや暗さの中でも、彼女はその輝きを失っていなかった。汚れ一つない白い服は、薄汚れた壁や地面と比べると明らかに浮いている。翡翠色の長髪を揺らして、彼女は立ち上がった。
「まさか、こんなに早く会えるなんて思ってなかったわ」
 彼女はそっと首を傾げて微笑んだ。
「ラクリマ君、優秀な部下を持ちましたね」
 カイゼルは目を細め、ヴェキアがいる手前の路地の辺りを親指で差した。
「あら、カイゼルに褒められるなんて初めてじゃないかしら」
 彼女、ラクリマは手を添えて笑い、頬をほんのりと赤く染め上げた。嬉しそうなラクリマとは対照的に、カイゼルは微笑を引っ込めて真剣な顔になった。
「で、僕を呼んだ理由は何ですか?」
 部下を使ってまで呼んだのだから、何かしら言いたい事があるのだろう。カイゼルの言葉に対し「そうね」とラクリマは相槌を打ち、
「簡単に言えば、私達の仲間になってくれないかしら?」
 カイゼルに右手を差し出した。
「……私達、とは?」
 すぐに右手を差し出す真似はせず、疑問の目をラクリマに向けた。
「私達、っていうのは私とヴェキアとアピーナ、それに……」
 ラクリマは差し出した右の手の平を下に向けた。すると指先から細い黒い糸がするすると伸び、糸の先にまとわりつくように、黒いもやが現れた。かろうじて人の形をとっているそれは、紛れもなく亡霊だった。
「この子達よ」
 可愛いでしょう、と亡霊の頭を撫でるラクリマに対し、カイゼルは気付かれない程度に一歩後退した。
「……やはり、君が亡霊達の親玉ですか」
 ため息をついて首を左右に振ると、ラクリマは亡霊を出したままで改めて右手を差し出した。
「ねえ、カイゼル……私と、幸せに暮らしましょう? 誰にも、邪魔させないわ」
 カイゼルはラクリマの右手をじっと眺めたが、
「お断りします」
 ラクリマの目に見てもはっきり分かるように、数歩後退した。
「僕は、君との幸せな生活など望んでいません」

「……そう……」
 カイゼルの言葉に、ラクリマは笑顔を失った。右手を下し、よたよたと後退して壁際の木箱の上に腰かけた。
「用件はそれだけですか?」
「……ねえ、考え直してよ。返事は今すぐじゃなくてもいいから」
 ラクリマは力なく微笑むが、カイゼルははっきりと首を左右に振った。
「何度考え直しても、結果は同じです」
「……そうよね。カイゼルは、そういう人だもんね」
 ラクリマは俯き、両手で顔を覆った。それ以上何かを言う気配は無く、カイゼルは踵を返して路地から出ようとした。
 が、カイゼルの目の前に立ちはだかるように何体もの亡霊が姿を現した。背後にも気配を感じて振り向くと、そこにも多数の亡霊が現れていた。
「……や……いや……いやよ……」
 亡霊の群れの向こう側で、ラクリマは顔を覆ったままぶつぶつと呟いていた。「ラクリマ君」と呼びかけても彼女は返事もせずに一心不乱に呟きを続けた。
「嫌よ嫌よ嫌よ嫌よ嫌よ嫌よ嫌よ」
「ラクリマ君、落ち着きなさい」
「わたしはみんなといっしょにくらしたいのただそれだけなのよ」
「ラクリマ君!」
「どうしてカイゼルは私といたくないのどうしてどうしてどうしてどうして」
 ラクリマは顔を覆う両手の爪を立てた。額のあたりにじわりと血がにじみ、やがて幾筋もの血が指を伝ってこぼれ落ちた。
「おや、何があったのか知らないけどこれは大変な状況」
 背後から声が響き、カイゼルは振り向いた。そこには人畜無害な微笑を浮かべるヴェキアがいた。呑気にぷかぷかと紫煙を燻らしながら、ラクリマの呟きに耳を傾けて「ははあ、なるほど」と状況を把握した。
「ねえ、ラクリマさん」
 数多の亡霊越しでも聞こえるように大きな声でヴェキアはラクリマに話しかけた。
「そんなにカイゼルさんを仲間にしたいのなら、亡霊にしちゃえばいいんじゃない?」
「……亡霊……?」
 ヴェキアの言葉にラクリマは顔を上げた。額の血がするりと顔の上を流れていく。目に血が入るが彼女はそんなことを気にも留めず、カイゼルをじっと見ていた。
「……ああ……そうね、それがいいわ」
「でしょ?」
 ヴェキアはけらけらと笑い、ラクリマもふわりと柔らかく笑った。亡霊の群れはぶるると震え、全員の視線がカイゼルに集中した。
「それなら、私の仲間になってくれるもんね……ねえ、カイゼル? 素敵だと思わない?」
 亡霊の群れがじりじりとカイゼルとの距離を詰める。カイゼルはため息をついて、微笑みを浮かべた。
「全く素敵だと思いませんね」
 亡霊の群れが一斉にカイゼルになだれ込んだ。

 次の瞬間、亡霊の群れが一気に弾き飛ばされた。弾き飛ばされた亡霊は地面にぼたぼたと倒れ込む。
「そう簡単に、僕を亡霊に出来ると思わないでください」
 カイゼルの周囲に、己の影から作り出した二つの大きな盾が出現していた。背後でヴェキアは口笛を吹いた。
「あなたは亡霊になるの。ならなきゃだめなの。ならなきゃ……ならなきゃ……」
 ラクリマはそっと右手を挙げ、それに呼応してか亡霊達が起き上り再びカイゼルに飛びかかった。しかしカイゼルの周りで二つの盾が素早く回転し、襲いかかる亡霊をことごとく弾き飛ばした。
「何度やっても無駄です」
 弾き飛ばされて倒れた亡霊を見下ろしながら言うが、ラクリマは右手を動かして再び亡霊を立ち上がらせた。
「……ふうん、盾かあ。これだけの数の亡霊の攻撃も余裕で完全防御、ってことは凄く良い性能だね」
 亡霊の攻撃を防ぎ続けるカイゼルの後ろで、ヴェキアはじっとその様子を観察していた。
「でも、防ぎっぱなしで亡霊達に何もしないってことは、攻撃は全然できないのかな……?」
 カイゼルはヴェキアの呟きには何も返さず、ただ亡霊の攻撃を防ぎ続けた。何度弾いても亡霊は立ち上がり、諦めることなく飛びかかってくる。
「これはラチがあかないなあ」
 仕方ない、と呟いてヴェキアは煙管の火を消してくわえ直した。カイゼルがその様子に目をやると、煙管から紫煙の代わりに黒い泡のようなものぽこぽこと吹き出した。亡霊の攻撃を防ぎながらも警戒していると、黒い泡はゆっくりとカイゼルに近づいていき、そして盾の間近にまで迫ったところで破裂した。泡の小ささからは想像できない強い衝撃に、盾がぐらりと揺らぐ。
「……これは……」
「えへ、結構強いでしょ」
 ヴェキアは得意げに笑いながら、煙管から黒い泡を吹き出し続ける。カイゼルの周囲にはいくつもの泡が浮いており、次々と破裂していく。盾は全ての破裂を防いだが、カイゼルの額には一滴の汗が浮かんだ。
「空気をぎゅうっと圧縮して閉じ込めたら、すごく大きな力が生まれるんだよ。ま、カイゼルさんなら知ってるだろうけど」
「……閉じ込める……ですか」
 この黒い泡は、ネーロを閉じ込めていた黒い泡と酷似している。閉じ込めている中身が違うだけで、全く同じものと考えても問題はなさそうだった。そのカイゼルの考えを察してか、
「そ、俺が作る泡は何でもかんでも閉じ込めちゃうんだよ」
 あっさりとそれを認めた。その間も黒い泡はカイゼルの周囲で破裂し続け、ダメージは受けていないものの額に浮かんだ汗は頬を伝って流れ落ちた。亡霊の攻撃も止む気配を見せず、黒い泡の破裂に巻き込まれようがお構いなしで突っ込んでくる。破裂に巻き込まれて亡霊が消えることもあったが、すぐにラクリマが新しい亡霊を呼び出した。
「…………」
 止む気配のない攻撃に耐えながら、カイゼルは機を待ち続けた。この状況を打開する策はあったが、今のカイゼルにはこの攻撃を耐え忍ぶ事しかできなかった。
「全く、しぶといなあ。亡霊も俺も倒せないならさっさと諦めりゃいいのに」
 ヴェキアの笑顔の上に微かな苛立ちが浮かぶのが見えた。ヴェキアは深く息を吸い、煙管から大量の黒い泡を出した。その泡は今までのようにふわふわとしておらず、空中にぴたりと停止していた。
「俺だって忙しいんだから、そろそろ一気に行かせて貰うよ」
 ヴェキアが指を鳴らした。空中に停止していた泡が一斉にカイゼルに向かって高速で飛んでいく。盾でその衝撃を防ぐが、速度も量も先程までとは違い、盾が大きく揺れた。その大きな隙を亡霊は見逃すことなくカイゼルの懐に突っ込んでいくが、盾が揺れると同時にカイゼルは後ろに大きくステップを踏んでいた。亡霊の攻撃は大きく空振り、体勢を立て直した盾は即座にカイゼルの傍に戻って行った。
「そういう、強い攻撃をしますよっていう発言は控えた方がいいんじゃないですか? 対応がいくらでも取れますよ」
 カイゼルがにっこりと笑顔を浮かべると、ヴェキアもまたにっこりと笑顔を浮かべた。
「うん、今度から控えるとするよ」
 ヴェキアは再び煙管から大量の黒い泡を出すが、カイゼルは今度は黙って見守ることはせず、空を仰いで大きな声を上げた。
「もうそろそろ良いでしょう?」
 カイゼルの意味不明な発言に、ヴェキアが黒い泡を出す手を止めると――
「世の娯楽と親友、ついでに世界の平和を守るため、正義のヒーローここに見参っ!」
 建物の壁を破壊して、ジョーカーが現れた。

「んっふっふ、僕が来たからには愛しい愛しいカイゼルには指一本触れさせないからね」
「気持ち悪い言い方は止めてください」
「がーん」
 ジョーカーは口でこそショックを受けたような素振りを見せたが、肩は落とさずにまっすぐにヴェキアの方を見ていた。右手には大きな黒い鍵があり、その先端を彼に向けていた。
「……ふうん、助けを呼んだ、か。どうやってこの場所を知ったの?」
「奇術師に出来ないことなんてないんだよ? これぐらいお茶の子さいさいってやつ」
 亡霊の一体がジョーカーに飛びかかってきたが、ジョーカーは攻撃をかわさずに鍵を亡霊の体に突き刺し、軽くひねった。がちゃん、と何かが開く音がして次の瞬間には亡霊は霧になって消えていた。
「それではご覧下さい、奇跡の脱出イリュージョン! お代は溢れんばかりの拍手で十分だよ!」
 ジョーカーはカイゼルの腕を掴み、空中に鍵を突き出した。鍵をひねると、そこは何もない空間のはずなのにがちゃんと何かが開いた。そして、どこからともなく現れた白い霧が辺りを包み込み、カイゼルの視界を奪った。
「今回の主役はジョーカーとカイゼルでしたー! ではではまた来週番組でお会いしましょー!」
 真っ白な視界の中、ジョーカーの楽しそうな言葉が聞こえた。

 * * *

 白い霧が晴れ、辺りの状況が掴めるようになるとカイゼルは驚いた。いつの間にか、あの路地裏ではなく町の大通りに移動していた。カイゼルは驚きながらも、人の流れにぶつからないように大通りの端まで歩いた。ジョーカーはにやにやと笑いながらもカイゼルにぴったりくっついて歩いた。右手からは、いつの間にか鍵は消えていた。
「……まさか本当に脱出イリュージョンをするとは思いませんでした」
 壁にもたれかけてそう言うと、ジョーカーはぷりぷりと怒りだした。
「じゃあカイゼルは、僕が脱出イリュージョンって言っておいて違う事をすると思ってたの! 心外だ! 僕の奇術師としてのプライドを踏みにじる行為だ!」
「だいたい、その能力でどうやって瞬間移動したんですか」
 ジョーカーの鍵は色々なものを開閉する能力だ。亡霊を「開いて」分解したのは分かるが、何をどう開閉すれば瞬間移動するのか理解に苦しむ。カイゼルが眉間にしわを寄せているのを見て、ジョーカーは得意げに鼻を鳴らした。
「へっへっへ、それについてはまた話す機会があればね」
 とりあえず帰ろうよ、とジョーカーは宿に向かって歩き出した。カイゼルもその後に続く。
「全く、仲間なのに秘密事とは嘆かわしい」
 カイゼルは自分の事を棚に上げて露骨にため息をつくが、ジョーカーは全くこたえた様子もなく、むしろ、
「カイゼルだって色々隠し事してるくせに。その能力だって、防ぐだけじゃないんでしょ?」
 と言い返す余裕があった。
「おや、分かりますか」
「分かるよ。自分の半身とも言える「影」から引き出した能力なんだから、あの程度の防御力だけってのはおかしいもん」
 本当に防ぐだけの能力ならもっと高い防御力を発揮するはずだ、とジョーカーは言った。正にその通り、カイゼルは己の能力を隠していた。ジョーカーが来ると分かっていたからこそ、あの場では必要最低限のカードしか見せなかった。
「流石、奇術師様は何でもお見通しですね」
「褒めても何も教えてあげないよー」

 大通りを抜け、人通りがぐっと減ったところでカイゼルはジョーカーのズボンのポケットがやけに膨れている事に気付いた。カイゼルがそれは何かと問うと、
「ああ、これ? コーヒー豆だよ」
 ポケットから小さな袋を取り出した。豆の絵が印刷されたその袋は紛れもなくコーヒー豆の袋だ。
「コーヒーの買い出しもお願い、って言ってたよね。これでいい?」
「……君は、僕が本当にコーヒーを買ってまでして飲むと思ってたんですか」
 カイゼルが苦笑すると、ジョーカーも苦笑した。
「いやあ、あのカイゼルがコーヒーなんて有り得ないから、これは助けを求めてるんだなって分かったけど。でも念のためにね」
「それにしても、君は毎回どこから現われてくるんですか」
 今回の壁を破壊しての登場はまだ理解できるが、たまに洋服ダンスの中から飛び出したり、ひどい時は空から落ちるようにやって来る。ただ登場するだけなのに妙にバリエーションが豊富で、毎回の対応に困る。
「奇術師様は神出鬼没で皆の居場所はすぐに分かるからね、遠慮なくびっくりしてちょ」
「びっくりしすぎて心臓発作を起こさないよう気をつけますよ」
 二人は笑顔を浮かべながら歩いた。宿は、すぐそこに見えてきた。

 * * *

「お帰り、お楽しみだったようで」
 宿に帰った二人をオーロは卑猥な笑みを浮かべながら出迎えた。部屋の中ではリタがネーロに絡まれて困ったような表情を見せていた。カイゼルが姿を見せるとネーロは「げ」とだけ言ってそそくさとリタから離れ、リタは「おかえり」とカイゼルに笑いかけた。
「……お楽しみ、って何ですか」
 嫌な予感がした。オーロはその嫌な予感を肯定するかのように嫌らしい動作でカイゼルにすり寄った。
「またまたあ、しらばっくれちゃってえ」
「…………」
 カイゼルは無言でジョーカーの方を向き、ジョーカーはさっと目を逸らしてわざとらしい口笛を吹き始めた。カイゼルはオーロを適当に突き飛ばしてジョーカーの元に寄り、小声で問い詰めた。
「君はオーロ君達にどう説明したんですか」
「いやあ、オーロの言動見てたら分かるでしょ? そんな感じの説明だよ」
 カイゼルはジョーカーをじっと睨んだが、
「……まあ、誤魔化してくれた事には感謝します。今度からはもっとましな嘘をつくように」
 ついと身を翻し、卑猥な笑顔を浮かべるオーロとネーロの頭を叩いた。

 痛い止めろよ暴力反対とわめき続ける二人を放っておいて、カイゼルはリタの元に歩み寄った。リタはベッドの縁に腰かけ、新品の帽子を手持無沙汰にいじくっていた。
「リタ君、買い物には行ってきましたか?」
「うん」
 リタはベッドの上の買い物鞄をごそごそと探り出し、
「はい、これ」
 透明の箱をカイゼルに差し出してきた。中には愛らしい色合いのマカロンが詰め込まれている。
「カイゼルにプレゼント」
「僕に、ですか」
 カイゼルは驚きながらもマカロンを受け取った。
「何故僕にマカロンを?」
 カイゼルが問いかけると、リタは苦笑しながらも正直に言った。
「……私、欲しいものが思いつかなかったの。そしたら、オーロがカイゼルにプレゼントしようって提案してくれて」
 リタはちらりとオーロに視線を移し、カイゼルも彼の様子をうかがった。オーロはジョーカーからシルクハットを奪ってひたすらからかっていた。あの双子はろくな事をしないと思っていただけに、そんなまともな気遣いをするなんて意外だった。
「マカロンにしたのは……うーん、食べたことないんだけど気になったの」
「……そうですか。では、有難く頂きます」
 カイゼルはマカロンの箱の蓋を開け、一つ取ってリタに渡した。
「僕はこんなに沢山食べられませんので、お一つどうぞ」
 リタが礼を言い、そこから何かを嗅ぎつけたのかオーロとネーロが箱に群がり、
「じゃあ俺もいくつか処分してあげよう」
「僕らって優しいねえ!」
 マカロンをいくつか取って行った。二人のあっという間の行動にカイゼルが苦笑していると、ジョーカーがひょいと一つさらっていった。
「……全く、ハゲタカみたいですね」
 カイゼルは残り一つとなったマカロンをつまみ、一口食べた。リタもマカロンを一口食べ、その独特の食感と甘さに二人はふんわりと微笑みあった。

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