霧の涙 第七話「切片 -macaroon-」
「頭痛が痛い」
宿の中にある食堂で、ネーロはぶつぶつ呟きながら夕食を口に運んでいた。左手は頭を抱え、右手に握られたスプーンはひょいひょいと夕食のスープを口に運んでいる。ネーロの隣に座っていたリタは心配になってネーロの顔を覗き込むが、
「放っておきなさい。ただの寝すぎでしょう」
向かいに座るカイゼルはぴしゃりとネーロの訴えをはねのけた。
「本当に痛いんだってば。起きた時からずっとだよ、おかしくない?」
「頭痛が痛い、なんて発言をする辺り確かにおかしいですね。ネーロ君の頭が」
「きいいっ」
ネーロが机を乗り越えてカイゼルに殴りかかろうとしたが、リタは慌ててそれを引き留めた。ネーロはしぶしぶ椅子に戻り、頭を抱えながらもハムを口に運んだ。
「大体、一人で荷物番してたってのに昼寝するなんて、何考えてるんだよ」
ハムをちびちびとかじりながら、オーロがネーロを指さした。それに同調するかのように、ジョーカーもネーロを指さした。
「荷物番ができないくらい空っぽな頭だったとは思わなかったよ!」
「きいいっ」
ネーロが机を乗り越えてジョーカーに殴りかかろうとしたが、リタは慌ててそれを引き留めた。ネーロはしぶしぶ椅子に戻り、頭を抱えながらも野菜スティックを口に運んだ。
「僕だってねえ、昼寝をしようと思った覚えは無いんだよ、ちゃんと荷物番しようと思ってたんだよ!」
「それじゃあ、どうして昼寝しちゃったの?」
リタが問いかけると、ネーロは勢いよく「それがね!」とリタの手を掴んだ。
「顔は見えなかったけど、誰かが僕達の部屋に来たんだよ! そいつが僕の頭を殴って眠らせたんだ!」
周りがしんと静まった。
「……誰かが俺らの部屋に来た?」
「そんでネーロを眠らせた?」
訝しげな顔のオーロとジョーカー、そして、
「それはまた、リアルな夢を見たものですね」
表情を一切崩すことなく、カイゼルが紅茶を一口飲んだ。
「誰かが私達の部屋に入ったのなら、何のために?」
リタは首を傾げた。先程荷物を点検したが、無くなっているものは一つもなかった。誰かが侵入したとしても、物盗りではないことは確かだ。
「そっ……それは分かんないけどさあ! 確かに誰か来たんだって」
「物盗りでもないのに? 人一人を気絶させて部屋に侵入するっていうリスクを冒して、何もしないなんてのはあり得ないよ」
ジョーカーが冷静な意見を述べ、
「それともネーロ君を誘拐して取引のネタにするためとか、そんなとんでもない説を言いだすつもりですか?」
カイゼルがどう考えてもネーロをおちょくっている意見を述べた。ネーロは今にもとびかかりそうな表情をしたが、リタをちらと見て大人しく椅子に座った。
「ううう……夢だったのかなあ、あれ……」
ネーロはがっくりと肩を落としながらも卵入りのサンドイッチを頬張った。そんなネーロの肩を、リタは優しく叩いた。
「ネーロ……その、あのね……」
「リタ……ううっ、お前だけは信じてくれると思っ――」
「悪い夢なんてすぐ忘れちゃうから、そんなに気に病まないでね」
「きいいっ」
ネーロがリタに掴みかかってきたが、カイゼルがすかさず飛ばしたスプーンがネーロの額に当たり、ネーロはばったりとその場に倒れた。
* * *
――その日の晩、リタは不思議な夢を見た。夢と言うにはあまりにも現実的で、風景どころか気温や匂いまでもがはっきりと感じられた。
美しく敷き詰められた石畳の上に、リタは立っていた。周りには凝った意匠を施された建物が並び、ショーウィンドウにはきらびやかな服や宝石が飾られている。村暮らしのリタとは縁遠い富裕層向けの町並みだが、何故かリタはこの町を良く知っていた。懐かしいとすら思う。
「お待たせ」
背後から女性の声がして、リタは振り向いた。その声も、今まで聞いた事がないはずなのに不思議と聞き慣れていた。
振り向いた先には一人の女性が立っていた。翡翠色の長髪を揺らし、リタに対して親しげに微笑んだ。リタもまた親しげな微笑を返した。リタは彼女の傍に立ち、並んで町を歩き始めた。
「今日はどこに行くの?」
「お菓子屋さん」
あの角を曲がったところよ、と彼女は次の十字路を指さした。角を曲がったその先には老舗の高級菓子店があることは知っていた。綺麗に飾られたお菓子の数々を想像して、リタの心はうきうきと弾んだ。
「確か、新作が出来てたはずなのよ。皆で一緒に食べようね」
「うん!」
リタと彼女は十字路の角を曲がり、目的の菓子店に入った。扉を開けるとちりんちりんと来客を知らせる鈴が鳴り、身なりの良い店員が「いらっしゃいませ」と礼儀正しく頭を下げた。
「この前言ってた新作、あるかしら?」
「ええ、こちらにご用意しております」
店員はショーケースの中から小さな箱をさっと取り出した。中には小さな丸い形で淡い色遣いが何とも可愛らしいお菓子が詰め込まれていた。彼女はそれを見て「まあ」と目を細め、店員の詳しい説明を聞く前に三箱買う旨を伝えた。
「……三箱も買うの?」
リタが訝しげな顔をすると、彼女はしれっとした顔で言った。
「私が二箱。残りの一箱は皆で分けて食べるの」
「…………」
彼女の食への欲求にリタが言葉を失っている間に、店員が同じ箱を三つ重ねて持ってきた。彼女とリタが見ている中、店員は丁寧な手つきで箱を袋の中に入れ、彼女に手渡した。
「お代はいつも通りでよろしいですか?」
「ええ。家に請求しておいてちょうだい」
彼女とリタは袋の中を覗き込んで幸福そうに微笑み、二人はお辞儀をする店員に見送られて店を後にした。
菓子以外は何も買う予定がなかったのか、彼女はまっすぐ家への道を歩き出した。リタもそれについて歩き、彼女の手からぶら下がる袋を眺めながらにこにこと笑った。
「本当にマカロンが好きだね」
リタがしみじみと言うと、彼女は「そりゃね」と笑った。
「見た目は可愛いし、食感は面白いし、味は甘くて美味しいし、非の打ちどころがないじゃない」
「そうだね」
「ああもう、そんなこと言ってたら食べたくなってきたじゃない! 早く帰ろう、リタ!」
彼女はリタの背をぽんぽんと叩き、足を速めた。早く帰ろうとリタに呼びかけた割にはリタに対する配慮がない早足で、あっという間にリタは距離を開けられた。リタは慌てて駆け出し、ずんずん進んでいく彼女に呼びかけた。
「ま、待ってよ! お姉ちゃん!」
* * *
「お姉ちゃん!」
そう叫んだ瞬間、宿屋の天井が目に映った。あの美しい街並みも消え、リタはベッドの上に寝転んでいた。隣のベッドではネーロが大きな口を開けてぐうぐうと眠っていた。リタはむくりと起き上り、窓を開けた。朝のすがすがしい空気が部屋の中に流れ込む。宿屋の前の通りにはちらほらと人の姿が見える。
「……夢……だったのかな……」
夢の内容ははっきり思い出せる。今までも何度も夢は見た事はあるが、これほどはっきり内容を覚えていた事は無い。内容どころか夢の風景も匂いも完全に覚えているこの夢は、明らかに異質だった。
「……分かんないや」
宿の食堂からふわりと焼きたてのパンの香りがした。リタのお腹はぐるぐると鳴き、いてもたってもいられなくなった。「ネーロ、起きて! 私、朝ご飯食べてくるね!」とネーロの肩をばんばん叩き、反応を待たずに部屋を飛び出した。
食堂では既にカイゼルが紅茶を片手にパンを食べていた。他に客の姿はなく、食堂はがらんとしている。リタは焼きたてのパンと出来たての野菜スープを食堂のシェフから受け取り、カイゼルの向かいの席に座った。カイゼルは紅茶を飲む手を止めてにこりと微笑んだ。
「おはようございます。早いですね」
「目が覚めちゃって。それに、パンの匂いが凄く美味しそうでお腹が減っちゃった」
いただきます、とリタはパンを一口かじった。焼きたて独特の味と香りにリタは目を細める。
「……目が覚めちゃった、とは……何かあったんですか? ネーロ君のいびきがひどい、とか」
「えっと……変な夢を見たの」
リタはパンを食べながら、夢の内容をカイゼルに話した。一人で考えても分からない問題なので、いずれ誰かに相談しようと思っていた。そして、相談するならカイゼルが良いと感じた。オーロやネーロは話をまともに聞いてくれないだろうし、ジョーカーはまともな返事をしてくれそうな気がしなかった。しかしカイゼルなら、真摯に話を受け止めてきちんとした返事をしてくれる。カイゼルとの付き合いは浅いが、リタは彼を信用していた。
リタが夢の内容を話し終えると、カイゼルは「ふむ」と呟いてパンを一口かじった。
「それは、おそらく君の記憶です」
「えっ」
予想もしなかった答えに、リタのパンを食べる手が止まった。
「君は村に住む以前の記憶を失っているんでしょう? ならばきっと、失われた君の記憶の一部が復活したんです」
どうして記憶を失っている事を知っているんだ、と思ったがその疑問はすぐに解消できた。リタは自分の記憶がない事をジョーカーに言っていた。ジョーカーがカイゼルにこの事を言ったのだと察する事が出来た。
「私の……記憶……」
「昨日買ったマカロンが、きっかけになったんでしょうね」
夢の中でリタは「お姉ちゃん」と一緒にマカロンを買っていた。彼女はマカロンが好きだった事は覚えている。昨日の買い物でマカロンを選んだのは、過去を思い出していないながらもマカロンに何かを感じていたのだろうか。
「旅に出て、良かったですね。きっとこれからも色々な事を思い出していきますよ」
「うん」
リタは微笑み、スープを一口飲んだ。本当は思い出す事が少し怖くもあったのだが、口に出さなかった。村に住む以前の事を完全に思い出したら、何かが起こる。根拠は無いが、そんな予感がした。
* * *
「正に奇跡の脱出イリュージョンだったよ」
路地裏の行き止まりで、ヴェキアはくつくつと笑っていた。その隣では顔面を血だらけにしたラクリマがぼうっと宙を見ている。周りには誰もいないことを確認し、少女は黒い日傘をたたんでため息をついた。
「説得に失敗したんですの?」
「あと一歩だったんだけどねえ」
失敗したにも関わらず、いつも通りの笑顔を浮かべるヴェキアを少女は侮蔑の表情で睨んだ。
「山小屋の時といい、失敗続きですわね」
「おお怖い。アピーナの怒った顔はいつにも増して迫力があるねえ!」
ヴェキアのからかうような言動に少女ことアピーナは食いつかず、用件を切り出した。
「頼まれてた事、調べてきましたわよ」
「ああ、どうだった? 黒だった、白だった?」
これを言うとこの男は喜ぶのだろうなあ、とため息をつきながらも「黒ですわ」と返した。
「そうかあ、やっぱり黒かあ! いやあ、俺の嗅覚ってすごいなあ。ていうかこんな所で出会った運命がすごいねえ!」
予想通りきゃあきゃあと女子のように騒ぐヴェキアに嫌悪感を示し、アピーナはラクリマの方に近づいた。ラクリマの目の焦点は合っておらず、意識は遠いところに飛んでいるようだった。
「ラクリマ様はずっとこの調子ですの?」
「逃げられてからずっとそうだね。まあそのうち元に戻るよ」
「全く……貴方がヘマをするからラクリマ様が苦労なさるのよ、マカロンでも買って差し上げたらどうなんですの?」
「ああ、それはいいねえ! ラクリマさんの大好物、俺も食べてみたいしね」
ヴェキアはさっさと歩きだし、路地裏を後にした。きっとマカロンを買いに行ったのだろう。
「……あの男の態度、もう少し何とかならないものかしら」
常に笑顔で何を考えているのか分からない。アピーナはヴェキアと言う得体の知れない男を嫌っていた。彼の素性は知ってはいたが、それ以外の事は何も知らない。
「ラクリマ様、ぼうっとする前にお顔を綺麗になさってくださいな」
アピーナはハンカチを取り出し、ラクリマに差し出した。ラクリマは焦点の合っていない目でハンカチを受け取り、ごしごしと顔を拭いた。顔についた血はなかなかとれず、顔を何回も拭きながらラクリマは呟いた。
「……あの人は、私が嫌いなのかしら……」
「大丈夫ですわ。いずれ、あの方もラクリマ様の想いに応えて下さりますわ」
アピーナはラクリマの元にひざまずき、にこりと微笑んだ。
「そうね……その前に、まず皆を亡霊にしちゃわないと駄目ね」
ハンカチで顔を覆いながらも、ラクリマが微笑んだのはアピーナにも分かった。
「私とヴェキアにお任せ下さいな。みんなみんな、ラクリマ様が望むようにして差し上げますわ」
「ありがとう……私の味方は、あなたたちだけよ」
ラクリマはハンカチをアピーナに返し、俯いて弱弱しい表情を見せた。アピーナは無言で頭を垂れ、絶対の忠誠を示した。
「みんな亡霊になっちゃえば、ずうっとずうっと、いつまでもいつまでも、幸せでいられるのよ……」
どうして分かってくれないのかしら、とラクリマは物憂げなため息をついた。