四鬼の街 第十一話「轍鮒の急」
この街に来てからササメの常識や価値観が通用しない事ばかり起こっていたが、今目の前に立ちはだかるのはそれ以上の非常識だ。
「……ハルミ……さん……?」
身にまとう服は見慣れたもので、浮かべる微笑みも依然と変わらない。
異質なのは、腰から下。栗毛の馬の首から下の部分にしか見えず、その姿は大昔の書物に出てきた伝説上の怪物――ケンタウロスそのものだ。それが決して幻覚ではなく現実である事は、たった今ハルミが蹴り壊して瓦礫で塞いだ出入り口が証明している。
「やんちゃだね」
「後で直さなきゃね」
二人の声に振り向くと、ハルミを変えた張本人であるアスクとデスクがのほほんとした調子で腹の目を細めている。
「僕、あの子に掃除と修理の仕方を教えてくるよ。アスクはここでハルミがヘンな事をしないか見守っててね」
「分かった。ちょっとの間だけ、お別れだね」
二人は長い腕を余らせながらも抱き合った。ほんの少し行動を別にするだけなのに大げさではないかと思ったが、常識外れのオンパレードを目にした後ではかわいらしいものに感じられてしまう。
熱い抱擁を終えたデスクは蝙蝠のような羽を広げ、「じゃあね」と二階の出入り口まで飛んで行ってダンスホールを後にした。
「ハルミ、なるべく殺さないようにね。その方が色々試せる」
「はあい」
ハルミはにこにこと微笑みながら、体の調子を確かめるようにその場で足踏みをする。彼女の眼はアキナガに向けられており、ササメの事など全く意に介していないようだった。舐められたものだが、ありがたい。
「ハルミ……本気か?」
アキナガが剣の切っ先を向けたまま問いかける。彼からするとハルミは魔物そのものなのだろうが、ササメを相手取った時と違い、明らかに迷っていた。
「本気です。アキナガさんと言えど、手加減はしませんよお」
というか手加減したら私が死んじゃいそうですし。ハルミはそう言いながらひょいと後ろを向いてアキナガに向けて思い切り後ろ足を蹴り上げた。ぶおんと風が唸り、蹄がアキナガの鼻先をかすめる。
「あらら、当たると思ったんですが」
「……本気なんだな……」
まともに当たれば頭蓋骨など砕けてしまう程の蹴りを何の躊躇も無くやってのけた。アキナガは長く息を吐き、剣をしっかりと両手で握り締めた。
「せめて、楽に終わらせる」
「言いますねえ」
「言いたくないが、言うしかないだろう」
アキナガは一歩踏み込んで剣を横薙ぎに振るう。恐らく前足を狙ったものだが、浅い。ハルミは前足を軽く上げてそれを避け、そのままアキナガの右腕を狙って前足を振り下ろす。体を捻って前足の一撃を紙一重で避けるが、その瞬間ハルミはアキナガに向けて右手を振るった。
「……っ!」
細長い何かがきらりと光りアキナガの頬を掠める。ちゃりん、と音がしてハルミが投げた物が針である事が分かった。極細の針なら殺傷力は無いが、その代わりに気にしなければならないものは――
「目線の高さが変わると当てるのも難しいですね」
ハルミの両手の指の間にはいつの間にか先程と同じような極細の針があった。光を浴びて怪しげに輝くそれには、間違いなく何らかの薬が仕込まれている。アキナガもそれは分かっているのだろう、体勢を立て直してすぐさまハルミに斬りかかった。今度は馬の部分の胴体を狙って逆袈裟に。今度こそ入るかと思った――が、ハルミは退くどころか逆にアキナガに向けて軽く駆けた。
「なっ……!」
アキナガは反射的に刃を止め、横に跳んでハルミの突進を避ける。すれ違いざまに両手の針がアキナガに向けて放たれ、アキナガは腕をクロスさせて手甲で針を防ぐ。その瞬間、ハルミは唐突に歩みを止めてくるりとアキナガに対して背を向けた。
「お腹ががら空きですよお」
まずい。ササメが銃を構えるよりも早く、ハルミの後ろ脚がアキナガの腹部を蹴り上げた。まるで玩具のように鎧が砕け、まるで漫画のように数メートル吹き飛ばされ、アキナガの体はハルミが蹴り崩した瓦礫の山に叩き込まれる。砕けた鎧の間から赤い筋がどろどろと流れ出る。アキナガの右手にはまだ剣が握られているが、意識があるのかどうかは分からない。
ハルミはアキナガの状態を確認して満足げに頷き、シャツの中から一振りのナイフを取り出して彼の元へと近付いていく。
「ハルミ、なるべく殺さないように」
「分かってますよお。気を失ってるかどうかだけ、確認させてください。このヒトは完全に黙らせておかないと何をしでかすか分かったもんじゃありません」
アキナガさーん、と歌うように呼びかけながら、ハルミは彼の傍まで近寄りぺたんとその場に座った。
「起きてますかあ?」
「…………」
アキナガがかすかに口を動かす。
「えっ? 何か言いました?」
ハルミがアキナガの口元に耳を近づける。そして――
「すまない」
アキナガの剣が、ハルミの腹を貫いた。
「え?」
ハルミの視線がアキナガから己の腹へと移る。彼女の腹はアキナガ愛用の剣をしっかりと飲み込み、その口からだらだらと血が流れ始める。
「愛、しき者を、不浄なる鎖から、解放せ、よ――」
アキナガが途切れ途切れに言葉を紡ぎ、剣がほのかに光りを帯びる。
「――解放(ヴィーダー・ベレーブング)」
剣から発せられたぼんやりとした光が、ハルミの体を包み込んだ。アキナガの手が剣から離れ、ハルミの頬を撫でる。ハルミは抵抗する様子も無く、やがて光は静かに収まっていく。
「……アキナガ、さん……」
ハルミの雰囲気が変わった事は、二人から少し離れた位置にいるササメにも分かった。
「……ハルミ、だな」
「ありがとう、ございます。おかげで、頭がスッキリしました」
アキナガが弱弱しく微笑む。ハルミもいつもと同じような笑みを浮かべる。
「……あれ? ねえ、もしかして頭が元に戻っちゃった?」
アスクが二人の様子を見てか、疑問にまみれた声を出す。教鞭を握りしめてつかつかと歩み寄る。
「二度も、同じ手は食いません」
ハルミは身をよじらせてアスクの姿を視界に捉えた。腹の傷が痛むのか顔をしかめるが、それも一瞬の事。優美な微笑みを浮かべ、手に持っていたナイフを投げた。
ナイフには見るからに毒性のありそうな蛍光色の粘液が塗られており、一直線に軌道を描いて標的――アスクの腹の目に深く突き刺さる。
アスクの歩みが止まる。
「……あ、れ……?」
その場に膝を突き、どさりと床に倒れこむ。腹に刺さったナイフを抜こうとするが、手がぶるぶると痙攣してナイフの柄すら掴めない。
「どうして……? 何も見えないよ……暗い……寒い……どうして……?」
「とっておきの、毒です。すぐに、楽になりますよ」
ハルミがにたりと笑う。ああそういえば以前拷問された時もこんな笑顔を浮かべていたな、と関係のない事を思い出した。
「やだ……デスクとお別れするの……やだ……」
うわ言のようにいやだ、いやだとアスクは呟いていたが、すぐに静かになった。手の痙攣も止まり、その体から生気が抜けた。
「私の体にイタズラした罰です」
* * *
アキナガとハルミ、両者の腹からどくどくと血が流れ出る。一刻も早く手当てをしなければ二人の命が危ない事はササメにも分かっていたが、金縛りに遭ったように足が動かなかった。
「……しかし、容赦なくやりましたねえ」
ハルミが自分の腹に突き刺さったままの剣を指差す。
「……すまない」
アキナガが剣を引き抜こうとするが、腕に力が入らないのか刀身はぴくりとも動かない。
「いいですよ。こうでもしなければ、私は、止まらなかったんでしょう?」
ハルミが咳き込み、口から黒ずんだ赤が零れ落ちた。心なしか呼吸も荒くなり、肩が静かに上下している。
「感謝、して、いますよ」
「感謝?」
不安げに様子を見守るアキナガの頬をハルミは撫でる。黒い血が頬にべったりと塗られたが、両者ともそれを気にする様子はない。
「……私の、善悪の基準は、知っているでしょう」
アキナガは静かに頷いた。
弱肉強食。強い者が正義で、弱い者が悪。それがハルミの善悪の基準だ。あっさりと捕らえられたササメは悪い弱者だと断言して自分の拷問を正当化した。倫理の欠片も無い傲慢な思考回路だ。あの拷問を思い出す度に、右手の指先がじくじくと痛む。
ハルミは何度も血を吐きながら深呼吸を繰り返し、時間をかけて息を整える。
「私は、悪が嫌いで、正義が好きです。強い力を持った、正義が、です」
「…………」
アキナガは無言で首を振ったが、ハルミは構わず言葉を続ける。
「正義に裁かれるのなら、それで、いい」
「……よくない」
「アキナガさんは、頭はおかしいけど、強くて、私が正義と認められ、る、数少ない人、ですよ」
一瞬息を詰まらせ、大量の血を吐いてハルミは倒れこむようにアキナガの肩に頭を預けた。アキナガの鎧が黒い血に濡れていく。
「……アキナガさん、ありが、とう、ございま、した」
「馬鹿な事を言うな」
アキナガが励ますようにハルミの頭をぽんぽんと叩くが、ハルミは静かに血を吐くだけだ。
「……貴方こそ、本物の、勇者、ですよ……」
細く長い息を吐き、ハルミは目を閉じた。
「……ハルミ……?」
アキナガは何度もハルミの体を揺するが、彼女は何も答えない。アスクと同じように、その体から生気は抜けていた。
その事実を理解したアキナガは「嘘だ」と静かに目を見開いた。
「俺が正義?」
「俺が勇者?」
「人間を、好きな人を、殺した俺が?」
アキナガは自問自答するようにぶつぶつと独り言を繰り返し、震える腕でハルミの体を抱きしめた。
「違う」
アキナガの腹からは依然として血が流れ続けている。ハルミほど重傷ではないのだろうが、このままではいけない。ササメの理性は警鐘を鳴らし続けているが、アキナガの発する暗く冷たい空気に絡め取られたかのように体が動かない。
「――人殺しだ! こんなの、人殺しでしかない!」
「俺が殺すべきは魔物だ! 魔王だ! 人間じゃない! 人間を殺すのは魔物のする事だ!」
「……俺は、何なんだ。魔物なのか。俺自身がそうだと気付いていないだけなのか」
「ハルミは魔物に変えられた。最後は人間に戻った。今まで俺が殺してきた魔物は? 奴らも元々は人間だったのか?」
「だとしたら俺が殺してきたのは人間だったのか?」
「俺が、魔物だと思っていた奴らは、人間だったのか?」
「だとしたら」
「俺は」
「魔王を倒し、世界を救う勇者じゃなかった?」
「ただの人殺し?」
アキナガの声から徐々に平静が失われていく。かける言葉が見つからない。
「ハルミは俺が本物の勇者だと言う」
「力を振るい、人を殺すのが勇者なのか?」
「違う」
「俺は勇者ではない。でも、ハルミは俺を勇者だと言う」
「どっちが正解だ?」
「俺は何なんだ?」
「勇者、魔王、魔物、ハルミ、討伐、世界平和、戦士、魔法使い、ベドラム、洞窟、魔物、人殺し、飢餓、博愛、僧侶、ハルミ、魔王、愛情、変異、勇者、勇者、勇者、勇者、勇者」
「――――」
一瞬の静寂の後、
「ああぁあああぁあぁぁぁあぁぁあああ!」
何の意味も感情も籠っていない無機質な咆哮がダンスホールに響き渡った。
アキナガの瞳は何もない宙をじっと見つめている。それだけで、アキナガの中の何かが切れてしまった事は明らかだった。
ササメはアキナガの様子を診ようと足を踏み出そうとするが、意思に反して体は二階の扉に続く階段へ向いた。それだけで、アキナガの手当てをしなければならないと言う義務感は、早くこの場から逃げ出したい焦燥感に塗り替えられた。
アキナガの何の意味もないうわごとを耳にしながら、ササメは二階へ続く階段の一段目に足を乗せる。
「――うるさいなあ。何があったの」
そのまま階段を上がろうとした矢先、二階の扉からデスクが姿を現した。
「……うん?」
デスクは二階からこちらの様子を見下ろして状況を確認する。一階出入り口付近の瓦礫に埋もれるように横たわるアキナガと、彼にもたれかけるようにして微動だにしないハルミ。そして――彼らからほんの少し離れた位置で腹にナイフが刺さったままのアスクの姿。
「……え……?」
デスクは即座にばさりと翼を広げてアスクの傍に降り立った。彼の腹に刺さったままのナイフを引き抜いて放り投げて「アスク、ねえ、アスク」と肩を掴んで揺さぶる。アスクからの返事はない。
「どうしたの、ねえ、ねえ。この姿じゃ話せないの? 元の姿に戻る?」
デスクはそう言って黒い板を自分の手元に浮かべ、かたかたかたと指先を忙しなく躍らせた。ピアノを弾くような鮮やかな動きは暫くの間続き、
「大丈夫、大丈夫だよ。僕も一緒に戻るよ」
力強い音を鳴らして演奏を終えた。
一瞬の静寂の後、二人の体はびくんと大きく痙攣した。全身の骨がめきめきと音を立てて暴れ出し、蝙蝠のような羽がぼろりと崩れ落ちる。真っ黒な腕が短く、そして人肌のような色に変化する。
骨肉が組み替えられる異音は暫くの間続き、それが収まった頃――そこには、二人の異形の生物ではなく、二人の少年の姿があった。