四鬼の街 第十二話「一蓮托生」
美しい少年だ。
ほんのりとベージュがかった白髪は絹糸のように輝き、頬や指先は傷一つない陶磁器と見紛う程の滑らかなラインを描く。華奢な体つきに加え、たっぷりと湛えられた睫毛と憂いを含んだ真っ青な瞳は、ともすれば少女とも取られかねない。
「アスク。僕だよ。デスクだよ」
青い瞳の少年デスクは、床に横たわる同じ顔をした少年の頬を撫でる。少年の目は閉じられており、死んでいると言うより精巧な人形が横たえられているように感じられる。
デスクは何度もアスクの名を呼び、頬や髪を撫でて手を握った。
「……ねえ、アスク。どうしたの。眠っちゃったの?」
アスクは一言も返さない。デスクは彼の口元にそっと手をやり、静かに目を閉じた。
「……そっか……。そっかあ……」
デスクの手元に例の黒い板が浮かぶ。ぱたぱたと何かを打ち込む様を見ていると、王都で何度か見かけた事のあるタイプライターという道具を思い出す。あの黒い板より遥かに大きく不格好なものだが、何かを打ち込む様や音は同じものを感じる。
黒い板から伸びる線はデスク自身の体に繋がっている。迷いない動きで彼の指先は踊り、右の人差し指が力強い音を立ててフィニッシュを決める。
「……どうするか、早めに決めておいてよかったね」
デスクの右腕がめきめきと音を立てて変形する。少し遅れて、左腕も同様にうごめきだす。
両腕ともに長さは人間のそれより長く伸び、生物の温かみが感じられない黒に染まる。右腕は一回り太く、左腕は一回り細く。激しく脈打っていた骨肉は徐々に完成形へと近づいていく。
「それに、動けるのが僕で良かった」
やがて、変化が止まる。
右腕は人体など簡単に噛み砕けそうな程に巨大なハエトリグサのようになっていた。草のように柔らかなら恐ろしくは無いが、そう甘くは無いだろう。
そして、左腕は猛禽類の爪のように変化していた。鋭いかぎ爪がダンスホールの床を引っ掻いてキイイと耳障りな音を立てる。
デスクは静かにその爪でアスクの喉元を押さえ、右腕に宿るハエトリグサが静かにその口を開き彼の頭を包み込む。
「ずっと一緒だからね」
がちん、と重い金属音が響く。
ごきごき、ぐちゃぐちゃと生々しい音がササメの耳にも届く。
「嗚呼……っ、アスクの味がするよ。これは前頭骨の欠片、これは脳幹、これは眼球で……奥歯もとっても美味しい」
デスクは頬を紅潮させ、とろんとした表情でうわ言のように頭部の臓器名称を次々と述べていく。性的な快感を覚えているとも取られかねない表情だが、この状況では怖気しか感じられない。
咀嚼と嚥下を終えたハエトリグサは続いてデスクの胴体を軽く咥え込む。その動作はひどく丁寧で、慈愛に満ちていた。
「死んでも僕らは離れ離れにはならない」
がちん。ハエトリグサの歯が胴体を切断する。
「僕とアスクは一つになる」
がちん。ハエトリグサの歯が太腿から膝にかけて切断する。
「僕の血肉はアスクの血肉だ」
がちん。残った部分を一息に口の中へと運び込む。
咀嚼音が収まり、デスクが静かに顔を上げる。彼の足元にはおびただしい量の血だまりがあるだけで、それだけがアスクがこの世にいた事を示す証拠となっていた。
「……うん、まだ、足りないね。分かってる」
デスクはうわごとのように呟いて黒い板を浮かべて猛禽類の爪で器用に何かを打ち込んでいく。先程と比べてペースは落ちるが、それでも運指に迷いはない。
「僕の情報と、アスクの情報を半分こ」
ふいに運指が止まり、デスクの体に再び変化が現れる。背の皮膚がばりばりと裂けて蝙蝠の様な青い羽と赤い羽がそれぞれ一対、合計四枚がその背に生える。腰からはすらりとした少年の腕が生えだすがその色は漆黒。脚はずるりと腐り堕ち、代わりに蛸の足に似た何かが再構成されて彼の上半身を支える。腐臭を放つ黒が全身を染め上げる中、頭部だけが美しい少年のままでいるのはひどくアンバランスだ。よく見ると、彼の瞳は青と赤のオッドアイに変じている。
「……一緒、そう、一緒だよ……」
デスクの呼吸が乱れている。だがその表情は恍惚としており、腰から生えた腕で自身を抱きしめていた。
異様な空気に呑まれていた。ササメは自身が立つ場所――二階へ繋がる階段の前から動く事が出来ず、ただ静かにデスクの挙動を見守る事しかできない。
デスクは暫くの間ぶつぶつと何かを呟きながら愛おしそうに自身の体を撫でさすっていたが、ふとその動きを止めて静かに顔を上げた。
「ねえアスク、お腹が空いたね」
デスクは静かに蛸のような多肢を器用に動かして一歩踏み出す。その目線の先には、瓦礫の山の上で意味の無い言葉を呟き続けるアキナガの姿があった。
ぐちゃり、と不快な音を鳴らしながらデスクはゆっくりと彼の元へと歩み寄る。デスクが歩いた後にはどす黒い液体がべったりと塗りつけられているが、それを気にする様子は微塵もない。
「……魔物?」
デスクが眼前に立つと、アキナガの目はようやく焦点を結んでその異様な姿を認めた。
「魔物だなんて失礼だなあ。僕はデスク。……いや、アスクかな? どっちだろう? 君はどう思う?」
「魔物? いや、人間? 守るべきなのか? 狩るべきなのか?」
アキナガの焦点は再びぶれはじめる。デスクはくすくすと楽しそうに笑う。
「守るべきでも、狩るべきでもないよ」
そうだよね、アスク?
デスクは猛禽類の爪でアキナガの胸元をしっかりと押さえる。鋭い爪が鎧にひびを入れる。ただ鋭いだけではああはならない。あの細腕からはササメの想像もつかないほどの怪力が生み出されているのだろう。
「君は狩られるべき存在」
ハエトリグサの歯が、アキナガの頭部を切断した。
「……あ……」
アキナガさん! 彼の名を叫びたかったが金縛りに遭ったかのように舌が動かない。
ハエトリグサは生々しい音を響かせてアキナガの頭部を咀嚼し、残された胴体からはどくどくと血が流れ出している。
「アスク、どう? 美味しい?」
デスクは穏やかな微笑みを浮かべながら嚥下し、続いて胴体を手にかける。
「…………」
逃げなければ。
ササメは目の前で起こっている凄惨な出来事から必死に目を逸らし、震える足を動かして階段を一歩ずつ登り始めた。ぐちゃぐちゃと何かを咀嚼する音と腐臭がササメの耳と鼻にこびりつく。
「そうだねアスク、まだまだ足りないね! すっごくお腹が空いているんだ!」
タガが外れたような笑い声。声色自体は美しいが、ササメには恐怖しか感じられない。絡まりそうになる足を騙し騙し前へと突き動かし、どうにか二階の扉まで辿り着く。
取っ手に手をかけたその瞬間、階下のデスクがぐるんと顔を向けて口角を吊り上げて笑った。
「眼鏡のお兄さん、かくれんぼかな? うん、僕が鬼で良いよ! このご飯を食べ終わったら探しに行くからね!」
「……っ!」
デスクの瞳には一切の穢れが無かった。罪の意識は一切なく、今のこの状況を心の底から楽しんでいる。アキナガやハルミを食べる事を当然とし、ササメも「活きが良い食糧」としか見ていない。人間を下位の存在として扱う事に疑問が無い。
ササメはデスクの真っ直ぐな瞳から目を逸らし、扉を開けた。
扉の向こうは予想通り、玄関ホールの二階部分だった。すぐさま階段を駆け下りて外へと逃げ出そうとする――が、ずしんと家が大きく揺れた。
「なっ……」
天井のシャンデリアがぎいぎいと悲鳴をあげ、そして力尽きたかのように釣り金具が千切れた。ササメの目と鼻の先を鋼鉄のシャンデリアが掠め、一階の廊下中央部に轟音を立てて沈み込む。衝撃に耐えかねて千切れ飛んだ鉄片がササメの頬をかすめ、血がじわりと滲む。
「かくれんぼはおうちの中だけでやろうよ!」
ダンスホールの方から少年の無邪気な声が響く。ササメは二階へ引き返し、ダンスホールとは反対側の扉を押し開けた。
* * *
扉の向こうに広がっていたのは、かび臭く薄暗い空間だった。照明の類は一切なく、光源は壁に点々と設けられた窓から差し込む光のみ。
「…………」
部屋に規則的に並べられたものは、ササメが予想もしなかったものだった。天井まで届くほどの巨大な木製の箱が整然と並び、その中には紙束をまとめて布や革で保護したものがみっちりと詰まっている。
「……本……?」
王都で毎日目にし、毎日持ち運んだ形状の物体だ。見間違うはずがないと思いつつも、まさか流刑街で、こんな所で「本」を拝めるとは予想もしなかった。しかもこれほどの蔵書量だ。王都の図書館にも勝るとも劣らない。
大量の本を抱える本棚は整然と列をなしているが、ところどころで道を塞ぐように立っているものもある。まるで迷路だ、と思いながらササメは軽く駆ける。どこかに出口へ繋がる隠し通路のようなものは無いのだろうか。いや、隠し通路でなくてもいい。とにかくこの屋敷から脱出しなくてはならない。
本の迷路は存外単純な造りで、袋小路も無く簡単に部屋をぐるりと一周できた。ざっと見た限り出口や他の部屋に繋がる通路は無い。よくよく観察すれば何か手がかりがあるのかもしれないが、この薄暗さでは不可能だ。
かといってもう一度玄関ホールに戻る度胸は無い。どうにかシャンデリアを乗り越えて玄関から出ようと試みた所で、デスクと鉢合わせしてしまえば一巻の終わりだ。
「窓か……」
ほんの少し目線を上げると小さな窓がそこにある。人一人がやっと通り抜けられるほどの大きさで、ササメの背丈では窓枠に辛うじて手が届く。本を足場にして高さを稼げば窓から外に出られるだろうか――いや、ここは二階だ。窓から飛び出した所で転落死するのがオチだ。それに、本を足場にするのは忍びない。
さて、どうしたものか。
ササメは本棚から適当に一冊抜き出して頁を開く。古い本独特の香りにササメは思わず目を細めた。中身はどうという事のない恋愛小説だが、その毒気のない内容は現実を忘れさせるに十分だった。
気付かないうちに小説に没頭してしまったらしい。背後に誰かが立っていると気付いたが、ササメが振り返る前に大きな人間離れした手で口を塞がれた。
「…………!」
銃を背後に向けて発砲しようとするが、背後の誰かはササメの両腕ごと抱きしめるようにして動きを封じる。
「落ち着いて」
背後の誰かは静かな口調だが、しわがれた声は全く聞き覚えがない。必死に抵抗するササメを軽く押さえつけるその力は人間のそれではない。
「ササメさんを殺すつもりはないわ」
その一言でササメの動きはぴたりと止まる。こいつは何故僕の名前を知っているんだ?
「大丈夫。絶対に危害は加えない。だから貴方も、コレは撃たないって約束して」
背後の誰かは子供をあやすようにササメに言葉を投げかける。ササメは少し考えてから、こくりと頷いた。
もしササメを殺そうとする者ならこうして説得はしないだろう。それに、ハエトリグサでも猛禽類でもない手は最悪の状況ではない事を告げている。
「気付かれたら厄介だから、静かにね」
背後の誰かは何度も念押しをして、ゆっくりとササメの拘束を解いた。ササメがゆっくりと振り向くと、そこには黒いローブを頭から被った者がいた。ぼろきれの様な布の間から垂れる金の髪は、見覚えがある。
「……トウジ、さん?」
試しにその名を呟いてみると、ローブの人物は「よく分かったわね」とあっさり認めた。
「声も姿も違うのに」
ほらこれ、とトウジは見せつけるように右腕を伸ばす。長い爪が生えそろった扁平な手はまるでモグラのようだ。柔らかな毛皮に包まれたその腕に触れてみると、幻ではなく現実である事がひしひしと伝わってくる。
フードに隠されてよく見えないが、その顔も人間の肌ではなく何かの毛皮で覆われている。ササメの視線に気づいたトウジは「レディの顔をじろじろ見るのが都会のマナーなのかしら」と釘を刺してきた。
「……どうして」
どうしてこんな姿に。
「私が油断したのがいけなかったのよ。でもまさか、場数も踏んでない子供二人に負けちゃうなんてね」
トウジの声から恨みつらみの類は一切感じられない。そんな姿になっても平静を保っていられる精神性が、ササメには理解できない。
「でもいきなり自分の体から妙な文字の羅列が飛び出して、いきなり足が変な方向に折れ曲がるって非現実的にも程があるわよね。アレに瞬時に対応できるのなんて、余程の馬鹿じゃなきゃ無理よ」
「……どうして、平気なんですか?」
ササメが声を絞り出すと、トウジは「あら」と意外そうに呟いた。
「私は流刑街の住人で、それも五年間も住んでる大ベテランよ? いつ死んでもいいように覚悟はできてるし、後悔が残らない生き方をしてきてる。だからあの二人に負けた時は『ああこれで終わりなんだな』って思ったわ。それ以上でも以下でもない」
でも生きてる。トウジはモグラのような手をぐっと握り締めた。
「そりゃあこんな姿になったのは驚きだし不便よ。でも、死んだつもりでいたのに生きてる。延長戦みたいなものだし、取り乱さずにこの体と状況を受け入れなきゃ勿体ないでしょう? そうしないと何も始まらないしね」
「始まる……?」
ササメが首を傾げていると、トウジは「そうそう、そこが本題ね」と頷いた。
「私の話をする前に、まずは今この屋敷で何が起こってるのか教えてくれない?」
そこを把握しないとどうしようもないのよね、とトウジは続ける。
「手短にお話はしますが、その代わり玄関ホールを通らずにここから出る方法を教えてください」
ササメがそう提案し、トウジは「お安い御用よ」と頷いた。……出る方法、あるのか。
「大体『現状を把握しないとどうしようもない』って言いますけど、何をするつもりなんです」
「単純な事よ」
トウジはしわがれた声でうふふ、と笑った。
「今まで通り、後悔の無いように生きるだけ」