四鬼の街 第二話「清濁併せ呑む」

 ササメは神の存在を信じていない。正確に言えば、否定も肯定もしない。神というものをこの目で見た事は無いが、それが「神は存在しない」と断ずる証拠にはならない。神を祭る行事に参加すれば祝詞を唱え、神の教えもそれなりに頭に入っている。信者と話をするにあたり必要な知識は頭に入っているが、それがササメの実際の行動に影響を及ぼす事は無い。平均的な民と比べるとやや冷めているとも言える。
 お世辞にも信心深いとは言えないが、流刑街にやって来てわずか一日でササメの神に祈る頻度はぐんと増えた。祈る回数は年間平均をとうに超え、未だかつてないほど真剣に祈った。溺れる者は藁をも掴むとはこういう事なのだな、と痛感した。

 教会に行こうと思ったのも、同じ思いに駆られての事だ。流刑街の地理は把握しきれていないが、屋根に十字架を掲げる建物は偶然にも目にしていた。いくら最低最悪の唾棄すべき街とはいえ、教会にはまだマシな人がいるだろう。何度も自分にそう言い聞かせ、気合を十分に入れてどうにか宿を出た。
 昨日は周りを把握する余裕も無く宿に連れてこられたが、どうやらこの辺りは商店が並ぶ区画らしい。開放的な作りの木造家屋が建ち並び、軒先では店主と思しき人物が退屈そうに本を読んでいる。そこだけ見るとのどかな光景なのだが、店主の空いた手には棍棒が握られており、並んでいる品物もどう見ても新品ではない。まるで誰かから奪い取ったものをそのまま売っているようだ。というか、そうなのだろう。
 商店が並ぶと言っても、開店している店は少ない。多くの建物は品物が陳列される事も無くがらんとしており、あちこちに切り傷や打ち傷のようなものが出来ている。どうやら朝方は人通りも少ないようで、それがまた殺伐とした雰囲気作りに一役買っていた。
 ササメは財布を肌着の下に隠しているのを確認し、速足で教会へと向かった。旅荷物は宿に置いてきたため身は軽く、一目で旅行者とは分からないはずだ。読みが当たったのか幸運だったのか、ササメは誰にも絡まれる事なく教会へ辿り着いた。

 都心部にあるような豪華な教会ではない。田舎ならではの小ぢんまりとしたもので、屋根の十字架が無ければ教会とは分からない。石造りの建物は合間に雑草が生えところどころにひびが入っているが、木造家屋よりもはるかに頼りがいがある。
 ササメの背丈をゆうに超える木製の大きな扉はその口を閉ざしているが、体重をかけて押してみると軋んだ音を立てながらゆっくりと開いていった。

 * * *

 天井が高く、空気が冷たい。ここはどうやら礼拝堂のようで、長椅子が二列でずらりと並んでいる。まともに椅子として機能しているものは少なく、多くは脚が壊れてバランスを崩してしまっている。礼拝堂の真ん中を突きぬける道の先には木製の教壇があるが、腹には豪快に穴が開いてしまっている。教団の左右には天使像が飾られているが、一方は羽がもげ、もう一方は頭が無い。散々な状態だ。
 一見すると荒れ果てた廃教会でしかないのだが、ササメは不思議と安堵を覚えた。流刑街の理不尽な暴力から隔離されたように感じられ、しんと静まった空気に耳を澄ませば小鳥のさえずりが聞こえそうだ。
 教会の側壁や教壇の後ろの壁には大きな窓が設けられているが、窓ガラスは無い。外の風がぴゅうぴゅうと吹き込んできて肌寒く、今の時期でこれだから冬はどうなるんだろうと思ったが、窓の傍に何枚もの木の板があった。恐らくあれで窓を塞いで暖を得るのだろう。
 教会の入り口に近い位置にある長椅子の端に腰かける。緊張して歩き続けていた為、座ると疲れがどっと噴き出た。

「あら、お祈りに来たのかしら」
 と声をかけられてもすぐに反応できなかったのは、気を緩めすぎていたからだろう。ササメが億劫そうに顔を上げると、教壇の向こうに一人の女性が立っていた。教壇後ろの窓から光を浴びて立つその姿は、救いの女神のように見えた。
「いらっしゃい。こんな所だけど、ゆっくりしていってね」
 彼女は穏やかな微笑みをたたえてササメの傍までこつこつと歩み寄ってきた。よく整えられた金の髪が日光を受けてきらきらと輝き、白いケープがふわりと風に揺れる。胸元に下げられた大きな黒い十字架は彼女の歩みに合わせて鈍く重厚な輝きを返した。今まで見てきた流刑街のどの住民よりも美しい佇まいにササメの背筋は自然と伸びた。
「あまり見ない顔だけど、最近ここに越してきたのかしら」
「ササメと申します。この街には仕事で一時滞在をしています」
「ササメさんね。私はトウジ。見ての通り、この教会の僧侶」
 トウジはそう言ってササメの隣に腰かけた。長椅子がみしり、と音を立てるが足が折れる気配はない。
「見たところ敬虔な信者って訳じゃなさそうだけど、どういう要件なのかしら」
「分かるんですか」
「単なる鎌かけよ」
 驚くササメに対し、トウジは事もなげに答える。僧侶なのに距離が近く、言葉遣いも随分砕けたものだ。故郷の僧侶とはまるで違うが、根底は同じなのか彼らと似たものを感じる。
 教会を選んで正解だった。ササメは教会の清浄な空気で肺を満たし、意を決してトウジの目を見た。
「……まず、僕がここに来た経緯からお話しします」

 * * *

 ササメは元々は流刑街から遠く離れた首都の住人だ。国王のお膝元、平和を尊び学問と芸術を愛する街で育ち、ササメは学者としての知識を日々蓄えていた。数字の羅列をいじくり回す事は好まず、人々が作り上げた文化の由来を探求する事を好んだ。
 苛められる事も多々あったが、その中で学を重ねたササメは高名な学院への進学を果たし、そこで特別講師として赴任していた「先生」と出会った。
 先生は人文・歴史学において第一線を歩む人物であり、その道を志したササメの憧れの人物と言っても過言ではなかった。彼の学究行為は単独行動が多い事から、学院のような不特定多数の人間と関わる場は苦手だと思っていただけに、特別講師として赴任したのは意外な事だった。
 学院に勤める講師の多くは資料を紐解き効率的に思索にふける術を教えていたが、先生は実地調査の術を教えてくれた。資料を読まず、額に汗して信頼性に不安のある情報を集める事を馬鹿にしているササメも、先生の講義ならと素直に耳を傾けていた。その熱心な姿勢が良かったのか、先生の方もササメの顔と名前を覚えて話をする機会も増えた。

 卒業したら先生のような学者になりたいです、とこぼしたのは今から数か月前の事だ。卒業用の論文も書き終え、春になれば学生という肩書が外れる。そんな時期に先生と昼食を共にした。特別講師の契約はとっくに切れていたが、ササメは時折先生と連絡を取り交流を続けていた。
「私のような学者にか」
 先生は微妙に顔をしかめた。当初は機嫌が悪いのかとびくびくしたその顔も、今ではすっかり見慣れてしまった。
「僕はまだまだヒヨッコですけど、いずれは」
「私からすると、ひよこどころか孵ってすらいない」
 有精卵だと辛うじてわかる程度だ、という言葉にササメはがっくりと肩を落とす。
「どうしたら孵る事が出来ますか」
 そんなものは自分で考えろ、と返ってくるのがいつもの事だ。ササメはそれを承知の上で言葉を宙に投げた。
「卒業まで暇なら、課題を与えてやろうか」
 ……が、返ってきたのは予想外の言葉だった。ササメが顔を上げると、先生は獰猛な笑みを浮かべた。
「これが出来たら、雛としては十分だ」

 * * *

「……で、その課題の関係でここに来たの?」
 トウジの問いかけにササメは素直に頷いた。
「課題は、流刑街の成り立ちを記した資料をほんの切れ端でもいいから自分の足で探して持ち帰る事」
 流刑街に関する資料は驚くほど少ない。実地調査を小馬鹿にし、安定した生活を第一とする学者が多数派を占める現状を考えると、この街の資料が少ない事も頷ける。
 だからこそ、敢えて実地調査を行い新たな情報を得る事が、第一線で働く学者に求められる資質なのだろう。先生の理屈はササメにも理解できるが、流刑街とはあまりにもひどいではないか。
「卒業に関わる課題でもないのに、よくここに来ることを決めたわね」
「そりゃ、迷いましたよ」
 この課題を提示された時は、断るかどうかで大いに悩んだ。両親に相談すると案の定大反対され、ササメ自身も断る方に心が傾いていた。
 しかし、曲がりなりにも長い間街として成立しているのだから、少し探せばすぐに資料は見つかるだろうとササメは踏んでいた。いくら治安が最悪の街とはいえ耳に入る噂は誇張されたものだろう、とも。
 ほんの少しだ。ほんの少し、危険を冒すだけで先生に認めてもらえる。
 先生と言葉を交わしてから今まで、ササメは先生から褒められた事が無い。学院の中では比較的優秀な成績で態度もよく、他の講師からはしばしば評価されていたのだが、先生はササメの意見を聞く事はあっても評価する事は無かった。それだけに、この課題をこなせば先生に認めてもらえるというのは非常に魅力的だった。
 結局は希望的観測と課題の報酬に負けて流刑街に足を踏み入れたのだが、既にこの状態だ。
「もう最悪です」
 ササメははあ、とため息をついた。
「なのに、諦めて帰らないのね」
「帰りたいのは山々ですが、調査一つこなせず逃げ出したらとんだ笑い話ですよ」
 調査のような誰にでもできる仕事を放棄して逃げたとなると、先生だけではなく他の講師の心証も確実に悪くなる。学者としての将来の展望を奪われる可能性も高い。
 調査を完遂しない限り、流刑街で物理的に死ぬか、王都で社会的に死ぬかの二択は絶対なのだ。

「トウジさん、この街の成り立ちについて何かご存知ですか?」
「知らないわねえ」
 間を置かずに返事がきた。
「この街の歴史なんて、知ってる人は誰もいないんじゃないかしら」
「そ、そんな」
 この街に長く住んでいる人なら知っているのではないか? と言おうとした矢先、トウジがその疑問を潰した。
「私はこの街に住んで五年ほどだけど、この街ではそれでかなりのご長寿よ。他の人に聞いても無駄だと思うわ」
 衣食住に関わる技能を持っているものは比較的生き長らえやすいが、それでも五年も持ちこたえればベテランだ。一般人であればさらに淘汰されやすく、一年も満たずに死を迎えるものが大部分を占める。僧侶という身で五年もこの街で過ごしているトウジは、間違いなく大ベテランに入る。
「だから、歴史を知りたいなら人に聞くんじゃなくて本を探した方が早いわよ」
「本」
 そんなものがこの街にあるのか、とササメは眉間にしわを寄せた。
「歴史を書いた本なんて、どこにあるのか私は知らないけど」
 ただ、人に訊ねるより本を探した方が見つかる可能性は高い。トウジはそう断言した。

「……それにしても、たった五年でベテランなんてひどい街ですね」
 ササメはため息をつく。
「貴方にとってはひどい街だろうけど、それでも街として残っているのよ。それがどういう事か分かるかしら」
「…………?」
「綺麗すぎて、あるいは汚すぎて社会に受け入れられなかった人達の受け皿としての需要があるの」
 一年も満たずに死ぬ者が多数を占めるが、それを補うように多数の人間がこの街にやって来る。社会的に受け入れられない人がそれだけいるのはにわかには信じがたいが、流刑街が成り立っているのは事実だ。
「危険だけど、清濁併せ呑む器があるのよ」
「器、ですか」
 入った者の多くはあっという間に死んでしまうとは、猛毒の器ではないか。
「トウジさんはどちらですか? 綺麗すぎてか、汚すぎてか」
 この落ち着いた物腰からして、間違いなく綺麗すぎてだろう。神の教えを信じ、買収をはじめとした卑劣な手段を拒み続けた結果居場所を失い、この街までやってきた。そんなストーリーが簡単に予想できる。
「汚すぎて、かしら」
 ……が、返事は予想外のものだった。汚い? この美しい女性が? とササメが目を丸くしている隙に、トウジはササメの左手を取る。刺し傷は一日二日で癒えるものではなく、触れられるだけでじわりと痛みが走る。
「これはどうしたの?」
「昨日、身ぐるみを剥がされそうになった時に刺されました」
「まだ、血、出てるわね」
 今朝包帯を変えたはずだが、既に血の染みが出来ている。ろくな治療道具が無いから仕方ないとはいえ、いい光景ではない。
「トウジさん、もし傷薬をお持ちでしたら分けて頂きたいのですが」
「必要ないわ」
 トウジは包帯をするすると解き、血で汚れた醜い傷口をじっと見た。熱がこもったその視線は、常人が傷口に注ぐそれではない。
「……トウジさん?」
「素敵」
 トウジはササメの左手をそっと口元に持っていき、べろりと傷口を舐めた。彼女の舌は傷口の周りにこびりついた血を拭い取ると、傷口に深く入ろうとする。いくらなんでもこれは異常だ、と左手の痛みによる警告に従いササメは手を振り払った。
「何をっ……!」
「……もう猫かぶるの、限界」
「え?」
 トウジがふう、とため息をつくと辺りの空気が変わった。口角がにいっと吊り上がり、真紅の瞳は実に楽しそうに細められた。救いの女神とは程遠い表情に、ササメは反射的に立ち上がって距離を取った。

 その瞬間、ササメの目の前でぶん、と風が唸った。いつの間にかトウジの胸元から黒い十字架が消え失せ、代わりに両手には黒いT字状の武器――トンファーが握られている。あの十字架が二つに割れてトンファーに変わったのだ、という事は一瞬で察せられた。白いケープや腰回りの飾り布も脱ぎ捨てられ、随分と動きやすい格好に変貌している。
「大人しくしてろよ」
 口調も随分ガラが悪くなり、先程までの救いの女神とは正反対の存在に見える。教会から宿へ逃げ帰りたくなったが、逃走を阻むようにトウジが立ちはだかっている。
「痛いのは最初だけだからよお、大人しく血ィ垂れ流しとけ」
 トンファーを素振りしながら、トウジが一歩近づく。ひゅんひゅんと鋼鉄の凶器が風を切る。
「……う、」
 ササメは一歩後ずさり、
「うわあああああああああああ!」
 くるりと身を翻して走り出した。真っ直ぐ進んだ先には教壇が見えるが、教壇に用は無い。素早く左右を見渡すと勝手口のような扉が見えた。恐らく居住用のスペースへ続く扉だろう。
 後ろを振り返る事なくササメは右側の扉に向かって駆け、半ば蹴り開ける勢いで扉の向こうに転がり込み、頭の中で悪態をつく。

――この街にまともな人間はいないのか!

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