四鬼の街 第三話「犬猿の仲」
左手が痛む。心臓の鼓動に合わせて熱い痛みが発せられる。ガーゼも包帯も念のため持ってきていたが、応急処置を施す余裕はない。
扉の向こう、左手には狭い廊下が続いていた。道は途中で左に折れており、廊下の右側――つまり、外周側には木製の扉が等間隔に並んでいる。恐らく、この廊下は建物に沿うようにコの字型を描き、その外周を取り囲むように部屋が並んでいるのだろう。ササメはそう見当をつけて廊下を駆けた。
木製の扉には太い鎖と大きな南京錠がかけられており、開けようがない事は一目見て分かった。鎖も南京錠も錆がひどく、開ける以前に触る事がはばかられる。
曲がり角を曲がった瞬間、礼拝堂と扉をつなぐ扉が開く音がした。続いて、トウジの愉悦に満ちた声。
「鬼ごっこのつもりかあ?」
悲鳴をあげたくなる衝動を抑え、右手で自分の口を塞いで走る。右手にかかる荒い鼻息が熱い。
相変わらず南京錠がかかった扉が続いている――かと思いきや、一つだけ鎖も南京錠もかかっていない扉があった。進行方向に並ぶ扉をちらりと遠目で確認するが、案の定南京錠がかかっている。その先で廊下はさらに左に折れ、予想が正しいのならその先には礼拝堂に戻る扉があるはずだ。
このまま廊下を駆けて礼拝堂に戻り教会入口から脱出する手もある。しかし、礼拝堂へ続く扉が施錠されている可能性、外へと続くあの重い扉を押し開けている間に追い付かれる可能性を考えると足が止まる。
そうこうしている間にトウジが追い付いてくる。ササメは目の前の扉を開けて部屋の中へ滑り込んだ。
部屋の中は狭く、殺風景だった。ベッドと机とクローゼットだけが置かれ、窓から入る日差しが部屋を照らしている。机の上にはよく読み込まれてぼろぼろになった聖書と見覚えのあるトンファーが置かれていた。
日光が降り注ぐ窓の傍に扉があり、ササメは扉に駆け寄って押してみるが、開かない。引いてみても扉はうんともすんとも言わず、固く口を閉ざしている。南京錠をかける金具も無く、鍵で閉ざされている扉とは考え難い。扉が開かないよう向こう側に何かを置いているのか――? と考え始めた頭を妨害するかのように、廊下側の扉がどんどんとノックされた。
「ササメちゃん、遊びましょ」
さあっと血の気が引く顔とは対照的に、左手は相変わらず血を流し続けていた。
* * *
ササメの左手の傷は深い。こびりついた血を舐めとり傷口を目にしたトウジには、それがよく分かった。少し舌を割り入れるだけで新鮮な血が溢れ出し、甘美な鉄の味はトウジの脳髄を痺れさせた。より貪欲に味わおうとしたが、案の定その前にササメに逃げられた。
しかしそれも予想されていた事。教会入口へ戻れないよう立ち塞がるだけでササメは廊下の方へ逃げてくれた。礼拝堂から廊下へ続く扉は教壇の左右に一つずつあり、左側は南京錠が下りていて開かないようになっている。そちらへ向かえば一瞬で勝負はついたのだが、幸運にもササメは右側の扉を選び廊下へと逃げ込んだ。
幸運にも、とはいえ彼の寿命が数分伸びただけだ。トウジが寝泊まりに使用している部屋以外は全て錠がかけられ、トウジの部屋には裏口と言える扉があるがあれは開かない。鍵の故障などではなく、単純に外側に木箱を置いて物理的に開かないようにしているだけだ。外側から木箱を取り除かない限り、あの扉は開けられない。内側からこじ開ける術は無いと言っていい。
廊下には血の跡が点々と続いている。左手の傷によるものだ。あの慌てた様子からして、この血痕に気付いていないだろう。血痕は廊下を真っ直ぐに進み、トウジの部屋の前で血痕の数は目立って増えた。部屋に入るか、廊下を進むか立ち止まって逡巡した時に付いたものだろう。結局ササメはトウジの部屋に入る事に決めたらしく、先の廊下には血痕が無い。
袋の鼠だ。トウジはにいっと口角を吊り上げて笑った。あの程度の男なら、この扉から逃げないよう気を付けて立ち回る必要性も無い。一発打てば、すぐに大人しくなるだろう。お楽しみはそれからだ。温かな血の味を想像するだけで涎が出た。
「ササメちゃん、遊びましょ」
どんどんと乱暴にノックをする。ササメからの返事は無いが、扉の向こう側で何かが慌ただしく動く音がする。かくれんぼでもするつもりなのだろう。折角だから付き合ってやろう、と物音が収まるまで扉を開けずに待っておいた。
間もなく部屋は静かになり、トウジは「もういいかい?」と子供のように問いかけた。「もういいよ」の返事は無いが、扉を蹴り開けて部屋に入る。
見慣れた部屋は特に荒らされた形跡もなかった。予備のトンファーも持ち去られておらず、つまりササメは相変わらず無防備な状態だ。床に付いた血痕は一度は外へ繋がる扉に向かっているが、そこから外に出た様子はない。当然だ。血痕は部屋のあちこちをさ迷い歩いた後、クローゼットの中へと消えている。
「まあ、隠れ場所っつったらここぐらいだよな」
トウジはトンファーを握り直し、クローゼットの扉を乱暴に蹴った。中からの反応は無い。声を出さないよう必死に口を押さえて震えているのだろうかと思うと笑みがこぼれる。絶望に浸した血は、美味い。
「御開帳!」
ばたんと勢いよくクローゼットの扉を開ける。しかしそこにあったのはトウジの替えの服だけで、ササメの姿は無い。どういう事だ……? と眉間にしわが寄るが、視界の端で何かが勢いよく動くのが見えた。脊髄反射でトンファーを振るうとわずかながら手応えがあった。会心の一撃ではないが、気弱な学者の動きを止めるに足る一撃。
トウジはゆっくりと振り向き、自分の足元でササメが頭を押さえて倒れこんでいるのを確認する。
* * *
血痕が残っている事に気付いたのはトウジが扉をノックした瞬間の事だった。じっくりと策を練る猶予は無く、ササメは咄嗟にクローゼットの扉を開けて一旦その中に入った。そのままクローゼットにこもる事はせず、懐からガーゼを取り出して傷口に当てる。血が滴らないよう細心の注意を払い、クローゼットから出て扉を閉める。そしてベッドの下に潜り込み、トウジが入ってくるのを待った。
これでトウジからするとササメはクローゼットの中に入っているように見えるだろう。トウジがクローゼットを開けた隙にベッドの下から這い出し、この部屋から飛び出す。そして来た道を戻り教会から脱出する。単純な策だが、トウジの手から逃れる術はこれしかないように思えた。
予想通り、トウジはクローゼットの扉を開いた。今がチャンスとササメはベッドの下から這い出して廊下へ繋がる扉へ真っ直ぐに駆けた。トウジの背後を駆け抜け、扉に手をかけようとした瞬間――ササメの後頭部に鈍い衝撃が走った。全身からがっくりと力が抜け、その場に倒れこむ。遅れて鈍痛がやって来る。
トウジの足がこちらを向き、しゃがみこんでササメの顎を持ち上げる。彼女の嗜虐的な笑顔にぞっとする。
「ちょっとは頭が回るじゃねえか。……まあ、それもあと一歩及ばず、だけどなあ?」
トウジの手がササメの後頭部を無遠慮に撫でつける。恐らくトンファーで殴られたであろう場所を撫でられる度にずきりと痛みが走る。
このままじっとしていれば殺される。長年平和な世界で過ごしてきたササメでも、それぐらいは分かる。恐らく彼女は血液に興奮する性癖の持ち主で、これからササメを血祭りに上げるのだろう。
「……っい……いやだ……」
死にたくない。ササメは懐から銃を抜き、トウジに突き付けた。
脅しが利くような相手ではない。すぐに引き金を引いてトウジを撃ち、その隙に逃げなければならない。殺す必要はない、腕や肩を撃つだけだ――そう思っても、引き金がとんでもなく重い。震える指先に必死に力を込めるが、引き金が引かれる前に、トウジのトンファーが銃を弾き飛ばした。
「いいモン持ってやがる」
弾き飛ばされた銃は地面を転がり、ベッドの下に消えた。すかさず予備の銃も抜くが、今度は引き金に指をかける暇も無く同じように弾き飛ばされた。
「人を殺す覚悟もねえ奴が私に勝てると思うな」
トンファーでこめかみを殴られた。ぐにゃりと視界が歪み、殴られた個所から温かい液体が流れ出る。トウジの顔がふいに近づき、こめかみを舐める。生暖かくざらりとした感触は、平和な世界であったなら興奮に値するものだっただろう。しかし、この状況下では恐怖しか感じない。
早く逃げなければ。気持ちばかりが先行するが、体が思うように動かない。そうこうしているうちにトウジがササメの上に馬乗りになり、トンファーを軽くササメの胸に押し付けた。
「久々の新鮮な生き血だ、すぐに殺しはしねえよ。安心しな」
じわじわなぶり殺しにするつもりですか。そんな疑問を言おうとしても、恐怖のあまりろくに口が動かない。
ああ、僕はこんな所で生き血を啜られながらじわじわと殺されていくのか――と絶望が全身に染み渡った瞬間、その絶望を吹き飛ばすかのように破壊音が轟いた。
目の前をドアが飛んでいた。トウジはそれをトンファーで弾き、ドアは壁に叩きつけられて床に落ちる。
「…………?」
何者かが外からドアを蹴破り、破られたドアがトウジの眼前まで吹っ飛んできて、トウジがそれを弾いたのだと理解するまで少し時間がかかった。ササメが目を白黒させている間にトウジは立ち上がり、忌々しげにドアが飛んできた方向を睨みつけている。
「てめえ、何でんなとこいんだよ。お祈りの時間じゃねえのか」
ドアが飛んできた方向から聞き覚えのある声がする。身をよじって声の主を確認すると、そこには案の定ナツギリの姿があった。
「裏口蹴破ってんじゃねーよ」
トウジが不機嫌に顔を歪ませる。完全にササメなど眼中にない様子で、じりじりと這ってベッドの下に避難しても何も言わなかった。
「不意打ちでブチ殺してやろうと思ったのに、台無しじゃねえか」
「はっ、残念だったなあ?」
ベッドの下に転がっていた二丁の銃を回収し、様子を窺う。ここからでは二人の足しか見えないが、非常に険悪な雰囲気になっている事は嫌でも察せられる。
「久々のご馳走だってのに、よりによっててめえが邪魔するとか最悪」
「俺じゃ不服か?」
「てめえの血は不味い。臭い。ゲテモノ。不服ってレベルじゃねえ。帰れ」
「ゲテモノ食いが選り好みするとはなあ」
この二人は知り合いなのだろうか? いや、知り合いと言うより憎み合っている、と言った方が正しいか。空気が針のように痛い。ベッドの下ですっかり萎縮してしまったササメを余所に、二人は一瞬の沈黙の後激しく打ち合った。詳しい状況は見えないが、ナツギリの攻撃をトウジが受け、そして反撃しているらしい。肉と鉄がぶつかる生々しい音がグロテスクな方向へ想像を加速させる。
「……逃げなきゃ……」
ナツギリもトウジも戦闘に集中している今がチャンスだ。ナツギリが蹴り開けた裏口という脱出路も目の前にある。しかし、迂闊にベッドから這い出ると二人の戦いのとばっちりを食う危険性もある。慎重に、かつ迅速に動かなければならない。ササメは二人の戦いの音に耳を澄ませながら、息を深く吸った。
激しく打ち合う音が一瞬だけ止む。ササメはベッドから這い出し、そのまま立ち上がらず獣のように四つ足で裏口へ駆ける。
「逃げんじゃねーぞヘタレ眼鏡!」
トウジの罵声に体がびくりとすくむが、ナツギリが「メシの心配をするたぁ余裕だなぁ?」とすかさずトウジに拳を打ち込む。メシ扱いは不服だが、文句を言っている余裕はない。ササメは無我夢中で裏口から通りへ出て、宿に向かって真っ直ぐに駆けた。
* * *
流刑街の歴史を知るには、本を探す必要がある。
なぶり殺されかけた割に得られた情報はこれだけだ。宿の一室で怪我の手当てをしながらササメはため息をついた。こめかみの傷は浅いが、脈打つような違和感とわずかな痛みが残る。
本がありそうな場所――図書館のような施設はこの街にあるのだろうか。部屋に戻る前に宿の亭主に訊ねてみたが、彼は必要最低限の外出しかしない為、街の地理についての知識は疎かった。そういう事なら何年かこの街に住み、暇な時は街をほっつき歩いていているような輩――ナツギリに聞くのが早いと言うアドバイスしか貰えなかった。
「ナツギリさん、か……」
彼はササメに対してあまり良い感情を持っていないだろう。それは昨日ビンタを食らった事から明らかだ。そんな彼に話を聞きに行くのは気が引けるが、我儘は言っていられない。宿の中なら殺されないから大丈夫だ、と悲観的な方向に傾きかけた心をなだめる。
そうこうしているうちに宿の一階が騒がしくなる。何を言っているかまでは聞き取れないが、あの荒々しい声はナツギリだ。緊張するササメをよそに、声の主はどすどすと階段を上ってばたんと部屋の扉を開閉する。ササメはそろりと部屋を出て、まずは一階に向かう。
「ナツギリさんが好きな酒を下さい」
ササメがそう言うと、宿の亭主は「それが妥当だな」と頷いて棚から酒瓶を取り出した。料金を支払い、酒瓶を抱えてナツギリの部屋へ向かう。
「気が利くじゃねーか」
ササメの突然の訪問にナツギリは一瞬だけ不快そうな顔をしたが、酒瓶を差し出すとぱっと笑顔が咲いた。咲いたと言っても筋骨隆々のむさくるしい男の笑顔だから有難いものではない。
ナツギリの部屋には何もなかった。寝具と必要最低限の生活用品があるだけで、すぐにでも宿を出発できそうな程に荷物が無い。
「怪我、大丈夫ですか?」
ナツギリの体には多数の痣が出来ていた。間違いなくトウジとの一戦で出来たものだ。
「今回は軽い方だ。骨も折れてねえし」
「……トウジさんとは何度も戦っているんですか」
ナツギリは「おう」と頷く。二人の会話から何となく読めていたが、それにしても骨折も有り得るのに戦い続けているとはササメの理解を超えている。
「二人は仲が悪いんですか?」
「悪いな。俺はあんな趣味のくせに聖人ヅラしてる奴はムカツくし、あっちはあっちで『脂っこくてクソ不味い筋肉ダルマ』は生理的に受け付けねえんだってよ」
「だから殺し合うんですか」
「一方的に俺が殺そうとしてる。あっちは無駄な殺生は教義に反するから殺しはしねえとか言ってやがる」
ナツギリは忌々しげに舌打ちをする。何度も戦い、そして二人とも生きているという事はトウジが勝利を収め続けているのだろう。彼女はそれほどまでに強いのかと背筋が冷えた。
「今回は裏口から入って祈ってる所を奇襲してやろうと思ったのに……何でてめえがあの場にいたんだよ」
「えっと、それはその……」
ササメはかいつまんで事情を説明した。ついでに「この街に図書館はあるか」と聞いてみたが、帰ってきた答えは「知らね」とそっけないものだった。
他にも流刑街の地理について聞きたい事があったが、ナツギリは話に飽きたのか酒瓶を開けて「てめえがいると酒が不味くなる」とじろりと睨んできた。
また殴られてはたまらない。ササメは慌てて部屋を出て自室に逃げ込んだ。
「本にまつわる情報は無し、か……」
ナツギリは典型的な脳筋タイプだから予想は出来ていたが、がっくりと肩を落とした。自分の足で本がありそうな建物を探すか、詳しい人を探して尋ねるか。どちらにしろ危険な事には変わりない。ササメは左手とこめかみの痛みを感じながら、深くため息をついた。