四鬼の街 第五話「疑心暗鬼を生ず」

 自室のベッドに寝転んでぼうっとしているうちに、窓の外が少しずつ暗くなっていった。吐き気はいつの間にか収まっており、その代わりに空腹がササメを襲っていた。胃の中の物をすっかり吐き出し、昼食も取っていないのだから当然のことだ。
 立ち上がると少し目眩がした。腹が切なげに鳴き、視界がほんの少しぶれた。
「……お腹すいた……」
 部屋を出てよろよろと壁を伝って歩き、一段一段慎重に階段を下りる。

 夕食には少し早い時間だが、階下には既に人の姿がちらほらとあった。カウンターにはアキナガの姿があり、ササメの姿を認めると小さく手を振った。
「気分はどうかな」
「さっきよりはましです」
 ササメはアキナガの隣の席に座り、宿の亭主に野菜だけで夕食を用意してくれと頼んだ。今はまだ、肉を食べる気にはなれない。
「君は菜食主義者か」
「違います。肉を食べる気になれなくて」
 アキナガの前には、豚肉の塩焼きが置いてあった。あれだけの事をした張本人がその日のうちにのうのうと肉を食べられるとは、やはりアキナガはササメの感覚からはかけ離れている。
「食べれる時に食べておかないと、いざという時に力が出なくなるぞ」
「いざという時、って……」
 ササメにとってはこの街に来てからの毎日が「いざという時」だ。
「そうだな……魔物、もしくは魔王が現れた時だ」
「魔王?」
 夢物語の単語だが、出会った時から勇者だの魔物だの連呼されると、魔王と言われてもそれほど違和感は感じない。
「魔物を生み出す者、全ての魔物の親であり、全ての悪の根源だ」
「はあ」
「魔王を殺さない限り、世界に平和は訪れない。今、この世を包んでいるのはかりそめの平和だ。魔王の力が顕現すれば世界はたちまち闇と絶望に覆われる」
「……だから、アキナガさんは魔王を倒すために旅をしていると?」
 話を合わせてみるとアキナガは「そうだ」と頷いた。
「この街には特に魔物が多い。しかも凶悪性は他の地域のものより群を抜いている。この街のどこかに、魔王がいるはずなんだ」
 だから流刑街に留まって魔王を捜し歩いている、と言う事なのだろう。

「ササメはどう思う?」
 夕食として出された野菜スープとサラダを何口か食べた頃、アキナガがササメに問いかけてきた。
「……どう思う、とは?」
「決まっているだろう。魔王やその配下、魔物の事だ」
「…………」
 答えづらい質問だ。正直に言うとアキナガの言葉は狂人のそれとしか思えない。かといって、はっきりと自分の考えを口に出すと彼の気分を害しかねない。話を合わせるにしても、最初から存在を信じていない「魔王」を憎む事などササメには出来ない。自慢ではないが、大根役者だ。
 ならば、自分が目にしたものに対しての感想を言うしかない。
「……魔王については、見た事も存在を感じた事も無いので何とも言えませんが」
 サラダを食べる手を置いて目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは異形の犬の群れだ。
「あの魔物は非常にまがまがしく、倫理から外れたものだと感じました」
「そうだろう、そうだろう! この世に存在してはならない醜悪な生物、それが魔物だ!」
 アキナガはその答えに満足したらしく、笑顔で拳を握り締めた。よく見ると、手甲やマントにはうっすらと血痕が残っている。連鎖的に赤黒い肉塊の山が脳裏によみがえり、ササメは思わず口を押さえた。
「……でも、あそこまで、する必要はあったんですか?」
 吐き気の代わりに言葉が漏れる。
「あそこまで、とは?」
 アキナガは微笑みを保ったまま豚肉の塩焼きを口に運ぶ。ササメは肉を直視できず目を逸らした。
「いくら魔物が相手だからって、ばらばらに惨殺する必要はあったんでしょうか」
「…………」
 倫理から外れた醜悪な姿であっても、彼らはササメ達と同じく生きている。心臓が動き、血が流れている。ただ彼らの姿が異様だったからと言って、四肢を落とし頭を割ってグロテスクな肉塊に変えても良いのだろうか。せめて、生物としての原形を保った状態で殺すべきではないだろうか。
 アキナガの勇者としての志は悪ではないが、行動には問題点がある。少し本音をこぼしてしまったからには、自分の考えを伝える必要があるだろう。中途半端に言葉を引っ込めるのは最悪だ。
 アキナガに自分の意見を伝えようと顔を上げた所で、彼の顔から笑みが消えている事に気付く。
「……だから魔物は殺すなと言いたいのか?」
「違います」
 あんな気味の悪い生物を保護する趣味は無い。ただ、殺し方が異常だと言いたい。
「そうか……ああ、分かった……分かった……!」
「分かってくれましたか」
「ああ、だから全部説明する必要はないぞ」
 アキナガはそう言って笑うと突然立ち上がり、ササメの首根っこを掴んで賑わい始めた食堂を横切って外へ出た。
 何かがおかしい。ササメがコートの内側にしまいこんだ拳銃の所在を咄嗟に確認している間に宿の外、道路の真ん中に乱暴に放り出された。
「アキナガさ――」
 言葉を切るように突きつけられたのは、アキナガの剣だった。
「観念しろ。この魔物が」

 * * *

 数秒間、アキナガの言葉が理解できなかった。
「……魔物?」
「とぼけるな」
 へたり込んだササメの額に剣の切っ先が当てられる。わずかに皮膚が裂け、そこからたらりと血が垂れる。
「人間のふりをした魔物だろう? よく擬態できたものだが、最後の最後でボロが出たな」
 僕が魔物?
 アキナガの言っている事が理解できない。
「あの畜生共に同情するなんて、同族としか考えるしかないだろう? 人間が、あんな醜く邪悪な存在に同情するはずがない」
 ササメを見るアキナガの瞳は冷え切っている。もうササメの言葉は届かない温度差だ。
「……さて、貴様には聞くべき事が沢山ある」
「……聞くべき、事?」
「『ササメ』は最初から貴様だったのか、途中で本物を拉致して入れ替わったのか。人間に擬態出来る程の力があるなら、魔王と近しい地位にあったのか。その場合、魔王は今どこにいるのか」
 額に当てられた切っ先が離れる。ほっと息をついたのも一瞬の事で、アキナガは見下ろしたままササメの首に剣を押し当てた。
「全て正直に話せば楽に殺してやろう」
 殺すのは確定なのか。
「最初の質問。『ササメ』は最初から魔物だったのか?」
「……違……います……」
 最初から今までずっと、人間だ。そう言いたいのに、言葉にならない。
「なら、いつから入れ替わった? 本物は無事か?」
「……入れ替わってなんて、いません。僕が本物です」
「嘘を言うな!」
 刺すような大声が誰もいない道路に響く。宿の中にも声は届いたのだろうが、誰も出てくる気配がない。赤の他人の為に「殺し禁止」のルールが適用された安全圏から出ようとする者はいない。当然の事なのだが、背筋が冷えた。
「最初は右脚。次は左脚。右腕。左腕。右目。左目。嘘を言う度、奪って行く」
 首に押し当てられた剣が、ササメの右脚に押し当てられる。
 本気だ。
「……僕は人間です!」
 腹の底から声を搾り出し、震える足を無理やり動かして立ち上がり、夜の街を走り出した。

 行くあてなど無い。強いて言うならば、アキナガを適当な路地に誘い込んで撒いて宿に戻り、「人間のササメ」になりきるしかないだろう。今日一日の出来事を無かった事にして、得体の知れない魔物に幽閉されていた。そんな筋書きを実行するしか道はない。
 路地に逃げ込んだとして、行き止まりに当たれば終わりだ。宿の方角を覚え、行き止まりに当たる事も迷う事も無いよう祈るしかない。細い路地に駆け込もうとしたササメの耳に届いたのは、アキナガの声だった。
「彼の者を現に繋ぎ止める怜悧なる鎖――」
 振り向いてみると、アキナガの剣が青白く輝いた。
「――霜纏う妖(ライフ・アルダ)!」
 ササメに真っ直ぐ向けられた剣先から、青い光が走り、ササメの右足に命中した途端に青い光が氷と化してササメの右足を地面に縫い付ける。
「なっ……!」
 剣が青い光をまとう事も、その光が走り出す事も理解できないが、この氷は何なんだ? 一般常識からかけ離れた現象だが、右足を覆う氷は間違いなく本物だ。靴越しに伝わる冷気が痛い。右足が動かない。
「逃げると言う事は、やましさがあると言う事」
 アキナガがゆっくりと歩み寄る。
「人間であるならば、するはずのない行動だ」
「……僕は、人間です」
「まだ言うか」
 アキナガはうっすらと笑みを浮かべてササメの右脚に剣を当てた。足元を覆う氷は厚く、生半可な衝撃ではびくともしないだろう。
 アキナガが剣を両手に持ち、静かに振り上げる。彼が本気だと言う事はその表情からして明らかだ。ササメは懐から銃を抜き、自分の足元に向けて撃った。
「……何っ……!」
 銃弾は厚い氷を貫き、爪先からわずかに逸れて地面にめりこむ。十分な衝撃を受けて足元を覆う氷全体にひびが入り、ササメが右足を振ると呪縛は解けた。
 突然登場した銃にアキナガは気を取られている。ササメは銃を懐に戻して身を翻して細い路地に逃げ込んだ。

「……っは……はあっ……!」
 細い路地をひたすらにひた走る。現実離れした出来事を体験して頭は混乱し、宿の方角も分からない。目の前に現れる道を直進し、曲がり、行き止まりに突き当たらない事だけを祈った。
 立ち止まるとアキナガの足音が聞こえそうだ。もう一度アキナガと遭遇すれば、助かる確率はゼロに近い。二丁ある拳銃の一丁は既に使ってしまった。残りの一丁で再びアキナガの不意を突いて逃げられるとは思えない。背筋が凍えて、自然と足が動く。
「大丈夫ですかあ?」
 がむしゃらに路地を駆けるササメの前に、唐突に人影が現れた。反射的に身を翻して逃げる体制をとったが、耳に届いた声は女性のそれだ。来た道を戻ろうとする足を止め、振り向いてその姿を確認する。
 ササメと同年代、あるいは少し年下の女性だ。朱色の髪をポニーテールに括っており、空色の瞳が不自然なまでにきらきらと輝いている。赤と黒でまとめられた服装は華が無いが、動きやすそうではある。
「……っ、どいて下さい……」
 早くここから逃げなければ。耳を澄ませばアキナガの声が降って来てササメの心臓を貫きそうだ。
「何かに追われてるなら、かくまってあげましょうか?」
「そんな暇はな……え?」
 かくまう?
 ササメが彼女の顔をじっと見ると、彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「貴方、悪い人じゃなさそうですし、かくまうくらいお安い御用ですよお」

 * * *

 彼女はハルミと名乗った。
 家はこの路地の中にあり、見た目はぼろだが室内は人が住む家独特の温もりがあった。
「誰に追われてたんですか?」
 ササメは頑丈そうな木製の椅子に腰かけ、ハルミは狭い台所でコップに水を注いでいる。
「アキナガさんと言う方です」
「ああ」
 ハルミはなるほどなるほどと呟きながらササメに水の入ったコップを手渡し、テーブルを挟んで向かい側に座る。
「ご存知ですか?」
「ご存知も何も、お友達ですよお」
 ハルミはうふふと笑うが、ササメは思わず立ち上がった。アキナガと友達だと?
「ああ、誤解しないで下さいねえ。私、魔物とか魔王とかぜーんぜん信じてませんから」
 ああ言う所を除けばとってもいい人なんですよ、とハルミは言う。
「……じゃあ、僕がここにいる事は……」
「言いませんよ。何なら、明日にでも『この人は本物のササメさんだ』とでも口添えしてあげましょうか?」
「……それは、助かります」
 ササメは水を一口飲んだ。緊張して走り回ったからか、水がやけに美味い。

「それにしても、ブチ切れたアキナガさんに襲われてよく逃げられましたねえ」
「運が良かっただけです」
 それにしてもあの氷は一体何だったのだろうか。彼の友人だと言うハルミなら何か知っているかもしれない。
 物は試しとアキナガと相対した時に体験した出来事を説明すると、ハルミは「ああ」と頷いた。
「それ、幻覚ですよお」
「幻覚?」
 あの氷がただの幻だと言うのか?
「アキナガさんが持っている剣……勇剣ベドラムでしたっけ? あれがアキナガさんの意思に反応して、相手に色々な幻を見せているみたいです」
「剣が幻を見せる?」
 実に非現実的だ。
「世の中、色々なものの原理が解明されていってますけど、科学では割り切れないものも少なからずあると思うんですよね」
「それがあの剣だと言いたいんですか」
「その通り」
 釈然としない答えだが、ハルミはにこにことほほ笑んでいる。
「常識じゃ測れない物があってもいいと思いますよ。何もかも分かっちゃったらつまらないじゃないですかあ」

 水を飲み干しほっと一息つく。
 改めて部屋を見回してみると、この一部屋に生活に必要なもの全てが揃っていた。二人もいると少し手狭だが、一人で暮らすにはこれぐらいが丁度いいのかもしれない。
 部屋の奥の方には鉄の扉があり、木製の家具が揃った部屋の中では妙に浮いている。
「あの部屋、気になりますか?」
 ササメの視線に気づいたのか、ハルミが鉄の扉を指差した。
「お仕事用のお部屋です」
「お仕事?」
 仕事も何もないようなこの街で、何を生業としているのだろうか。ササメが静かに続きを促すと「保安官ですよ」と答えが返ってきた。
「この街にいる悪い人を捕まえて、どうしてこんな事をしたのかあのお部屋で取り調べをして、更生させるのがお仕事です」
「それはご立派な職業で」
 取り調べやその後の対応でこの街に住む人々が更生するとは思えない。無駄な努力を続けている辺り、アキナガと同類ではないか? だからこそ気が合うのだろうか。
「……というか、そういう仕事なら、アキナガさんを更生させたらいいんじゃないんですか」
「アキナガさんは頭がおかしいだけで根は良い人ですからねえ」
 随分と辛辣だ。
「それに、悪い人を見つけてくれるから助かるんですよお」
 ハルミは楽しそうに笑う。その声を聞きながら、ササメは体がやけに重いと感じていた。朝は魔物退治に付き合わされ、夜は魔物扱いで逃げ回る羽目になったのだから疲れるのも当然だろう。
「常識じゃ測れない物があってもいいとは言いましたが、魔物はいくらなんでも有り得ません」
 ハルミははっきりとそう言うが、ならばササメが朝に見たあの異形の生物は何なのか。
 魔物退治の件も話すべきだろうかと思ったが、ぼうっと意識に霞がかかる。疲れが出るにしても突然すぎやしないかと疑問が生まれた頃には、すでに指一本動かせなくなっていた。まぶたが鉛のように重い。
「でも、彼が魔物と認定するからには、その人には何かしら悪い所があると思うんですよ」
 逃げなければ。ササメの意識は目まぐるしく警報を発するが、強烈な睡魔が警報のスイッチを切る。
「……ねえ、ササメさん?」
 ハルミの楽しそうな声が、眠りに落ちる寸前のササメの耳に届いた。

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