四鬼の街 第六話「勝てば官軍」
背中や尻、両腕から硬く冷たい感触がする。鉄製の椅子なのだろうか。腕を起こしてみるが、何かに阻まれてしまった。足も動かせない。
重い瞼をこじ開け、光を取り込んだ。瞳から送られる情報は起き抜けの頭ではなかなか処理できない。が、半ば夢心地だったふわふわとした意識は、ハルミに睡眠薬を飲まされた事を思い出した途端弾かれるように飛び起きた。
「……なっ……!」
それと同時に自身が置かれた状況を一瞬で理解した。肘掛けのついた鉄製の椅子に座らされており、両腕は肘掛けに、両足は椅子の脚部にロープで縛り付けられている。
前方には鉄製の扉が見える。それを見てようやく自分がハルミの「仕事部屋」にいる事が分かった。首を動かして見える範囲で部屋を観察すると、何に使うのか分からない器具が大量に壁に掛けられていた。部屋の隅には、資料で見た事のある鉄製の女性像があった。拷問具としての知名度はナンバーワンの代物だ。
「目が覚めましたかあ?」
背後からハルミの声がして、ササメの横からひょっこりとその姿を現した。
「何なんですか、この部屋は」
「さっき言ったじゃないですか。お仕事部屋ですよお」
「何故僕が」
「悪い子だからです」
「アキナガさんに魔物扱いされた事でしたら、あれは誤解です」
「……分かってないですねえ」
ハルミはササメの前に立ち、膝を折って目線を合わせてきた。
「ササメさんは、悪とは何だと思います?」
「……はい?」
「貴方が『悪い事』だと認識するのはどういう事ですか?」
「……倫理に反し、法に抵触する行為です」
窃盗、脅迫、詐欺、殺人、ササメが思う悪事は上げていけばキリがない。それらに共通する事と言えば、法に抵触している事だ。
「なるほどなるほど。では、無法地帯であるこの街での『悪い事』は何でしょう?」
お答えくださーい、とハルミは警棒でササメの頭を軽く叩く。
「法の力が及ばない町でも、倫理に反する行為は悪でしょう」
「倫理」
ササメの答えにハルミはしばし黙った後、くすくすと笑いだした。
「倫理とは誰の倫理ですか? この街の住民全員が、貴方と同じ倫理観を抱いているとお思いですか?」
ハルミは実に楽しそうに、警棒でササメの額を小突く。
「この状況、ササメさんの倫理観では悪としましょう。でも、それがどうしたんですか?」
「どうした、って……!」
「私の倫理観では、これは悪でもなんでもないですよお。だって、私が『悪い人』だと思ったから捕まえただけの事ですもん」
なんと身勝手な!
ササメは抗議の声をあげようとしたが、ハルミはさらに言葉を続ける。
「とまあこの通り、ササメさんの理屈はこの街では通用しません。この街では何が悪かなんて、もっとシンプルな答えですよ」
さて何でしょう、と警棒を教鞭のようにふるってササメに突き付けた。
法や倫理が存在しない世界でのルール。それはつまり、文明を持たない野蛮人のルールだ。
「……弱肉強食?」
「ぴんぽーん」
よくできました、とハルミがササメの頭を撫でる。嬉しさなど欠片もない。
「正解は弱肉強食、または勝てば官軍。ここでは強い人が正義なんです。つまり、こんなにアッサリ騙されて捕まっちゃうササメさんはとっても悪い子でーす」
「滅茶苦茶じゃないですか!」
あまりに暴力的な理屈にササメは悲鳴をあげたが、ハルミは笑顔を崩さない。
「弱い人が何を言っても無駄でーす。それじゃあお待ちかねの、おしおきターイム!」
警棒を腰のケースにしまったハルミが次に取り出したのは、錆の浮いたペンチだった。
「左手はもう怪我しちゃってますからねえ、最初は右手ですかねえ」
楽しそうに、威嚇するようにペンチを開閉する。
「何を、するつもりですか……?」
「おしおきタイムって言ったじゃないですかあ。物覚えが悪いですねえ」
ペンチがササメの右手に迫り、そして親指の爪をその口に挟む。両腕は指先まで完璧に固定されていて、逃れる事が出来ない。
「最初は親指ぃー!」
親指の爪を挟んだペンチが、思い切り引かれる。刺すような痛みにササメの口から動物のような叫びが飛び出した。
ペンチを開いて親指の爪を床に捨て、ハルミは頬を紅潮させてうっとりとした。
「ああっ……イイ……とってもステキな悲鳴ですねえ……!」
「……あ……ああ……何で……」
「ひとさし、なーか、くすり、こーゆびっ」
ピクニックに行くような陽気な調子でメロディを口ずさみ、ハルミは次々とササメの右手から爪を剥いでいく。それも、一気に剥ぐのではなくひとつひとつ、ササメが喚き終えるまでじっくりと時間を取った。
「ササメさん、貴方とっても素敵な反応しますねえ……こんなにやりがいのある人は久しぶりですよお」
「……やめて……くだ、さい」
「何故ですか? まだ始まったばかりですよ?」
右の指先から血がぽたぽたと垂れる。ササメの息は既に上がっており、言葉を発するのも一苦労だ。
「それに、おしおきが終わる頃にはササメさんは別人になっちゃってるから命乞いも無駄です」
「……別人……?」
「平たく言えば自分が誰かも分かんなくなっちゃうくらいに気が狂っちゃいますよお」
事もなげに告げられた事実にササメは言葉を失った。
「ほらほらあ、がっかりしてないでもっと沢山苦しんで悲鳴を上げて下さいね!」
ハルミはササメの肩を励ますようにぽんぽんと叩き、ペンチを左手の親指の爪にあてがった。
そして爪を勢いよく剥がそうとしたその瞬間、鉄の扉が乱暴に叩かれた。
* * *
「……無粋な方ですねえ……」
ハルミはむっと顔をしかめ、ペンチをササメの膝の上に置いた。そして警棒を取り出し、警戒した面持ちで鉄の扉を開いた。
「お、いたいた」
「えっ」
鉄の扉の向こうにいたのはナツギリだった。ササメの姿を認めると彼はやれやれとため息をついた。
「ササメさんに御用ですか?」
「あーそーだよ。親父に言われて連れ戻しに来た」
「……親父さん……」
宿の亭主は何かとササメを気にかけてくれている。この街で唯一の良心かもしれない。
「金づるを無駄に死なせるなって言うし、連れ戻したら三日間メシと宿代をタダにするって話だしな」
「あ、そうですか」
金づる扱いですか。
「つーわけで、ナニしてたのか知らねえけどよ、こいつは引き取らせてもらうぞ」
ナツギリはハルミを押しのけてずんずんとササメに歩み寄る。巨大な筋肉の塊は普段であれば恐怖でしかないが、この状況では限りなく頼もしい。
床に落ちていた爪を踏み潰してササメの眼前に立ち、右手を束縛していたロープを素手で引きちぎる。
「ナツギリさん、ありがとうござ――」
礼を言いきる前に、ナツギリがその場から飛びのいた。
「脱獄は許しませんよお」
ナツギリがいた場所のすぐ後ろにハルミが立っていた。その手にはぬらぬらと輝くナイフが握られており、飛びのいたナツギリの右腕には切り傷が付けられていた。
「邪魔すんな。殺すぞ」
「それはこっちの台詞です。脱獄の手助けは有罪、死刑ですよお」
ナツギリは右腕の傷を一瞥し、ハルミとの距離を一気に詰めて殴りかかった。ハルミは身をかがめてそれを避け、すれ違いざまにナツギリの脇腹に傷をつける。
「降参したらどうですかあ? そしたら罪も軽くなってちょっと楽に死ねますよ?」
「誰が」
ナツギリはにたりと笑い、次の瞬間にはハルミの顔を捉えていた。……速い。
「あら」
ナツギリの拳はハルミの顔ではなく、顔をガードした両腕を捉えた。まるで漫画のようにハルミの体が飛び、壁に叩きつけられる。
少しの静寂の後、ハルミが壁に手を突きながら立ち上がり、にたりと笑った。
「やっぱり、筋肉モリモリの殿方には叶いませんねえ。しぶといしぶとい」
鼻から垂れた血をぬぐう。一方のナツギリは、何かを確認するかのように右手を動かし「毒か」と呟いた。
「即効性ですぐに動けなくなるはずなんですが、単細胞だと効きが悪いようです」
「そりゃ残念だったな」
ナツギリはのしのしとハルミの元へ歩み寄る。止めを刺すつもりだ。
ナツギリの身体能力はハルミよりも優れている。毒が回りきる前に決着はつくだろう。
そう考えて二人の動向をじっと目で追っていたが、それを遮ったのは鉄の扉から聞こえる第三者の声だった。
「ハルミに何をしている!」
鉄の扉の前に立っていたのは、アキナガだった。
最悪だ。
ササメの眼前が一瞬だけ暗くなった。これで二対一になってしまう。圧倒的に不利だ。
「アキナガさん」
「ハルミ!」
アキナガは一瞬だけ嬉しそうな笑顔を浮かべたが、すぐにナツギリに剣を向けた。
「貴様、ハルミに何をした!」
「何って……見て分かんねえのか? アホか?」
ナツギリは親指でハルミの顔を指す。殴った事は一目瞭然だ。アキナガの顔がみるみる憤怒に染まる。
「女子供を、ハルミを殴るのは人間の所業ではない!」
ハルミを、の部分を特に強調して言った。ああなるほど。何となく二人の関係が掴めた気がするが、掴めた所で嬉しい情報ではない。
というか明らかに不利な状況なのにナツギリはアキナガを挑発している。穏便に事を済ませると言う考えは彼の頭にないのだろうか。
「だから何だ? 俺を魔物扱いするのか? いいぜ、魔物でも」
獰猛な笑みと共に中指を立てる。この男は命知らずの大馬鹿者だ。ササメは今更ながら確信した。
幸いにもササメの膝の上にはペンチがある。空いた右手でそれを拾い、ロープを切りにかかる。錆が浮いている上に先程ササメの右手の爪を剥いだ代物だから気味が悪くて仕方ない。
「……今日は魔物がよく現れる」
アキナガは一足でナツギリとの距離を詰め、袈裟に切る。ナツギリはそれを紙一重で避けるが、ハルミがナイフで追撃をかける。
アキナガとハルミの流れるような連携は、二人は何度も組んで戦ってきた事がよく感じられた。アキナガは致命傷を、ハルミは搦め手を担い、互いの隙を補い合うように動いている。
対するナツギリは時折反撃に出ているものの、防戦一方の色が強い。心なしか反応が鈍くなっているのは、ハルミの毒が回りつつあるからだろう。
「尻尾が出てこねえなあ……!」
明らかに押されている。なのに、ナツギリは心の底から楽しそうに笑っていた。逃げるという選択肢は頭になく、命のやり取りを心の底から楽しんでいる。
理解できないし、したくもない。ササメは彼らの戦いを横目で見つつ左手を縛るロープを切った。後は、両足を縛るロープだ。
「咎人を裁く漆黒の雷撃――」
アキナガが黒く輝く剣の切っ先をナツギリに向ける。
「――鴉の雷刃(ラーベ・ドナー)!」
黒い雷が一瞬にしてナツギリを捕らえるが、ナツギリは痛みに顔をしかめる事も無く笑い、吼えた。
「しゃらくせえ!」
びりりと空気が震え、黒い雷も、剣が纏う光も一瞬で消えた。
「チャチな幻なんて怖くもなんともねえ」
「……魔法が効かないタイプか……」
アキナガはぶつぶつと何かを呟きながら再び近接戦を展開する。
「アキナガさんの魔法に競り勝つなんて、あきれた意志の強さですねえ」
ハルミもわずかな隙を突いてナツギリの体に小さな切り傷を重ねていく。
アキナガの魔法を看破したとはいえ、相変わらず不利な状況だ。ササメは目立たないよう最小限の動きで両足のロープを切り、ようやく体が自由になった。
「…………」
三人は戦いに熱中している。真っ直ぐに出口に向かって駆ければ難なく抜け出せるだろう。わずかに腰を浮かせて機を窺う。
ナツギリの動きはますます鈍くなっている。早く脱出しないと決着がついてしまう――と思っている間に、ハルミの攻撃をかわして体勢が崩れたナツギリにアキナガが剣を振り下ろした。
「……っち……!」
ナツギリは両腕で頭を庇うが、魔物の頭部を玩具のように割った剣だ。恐らく、両腕ごと頭を真っ二つに割るだろう。
ササメは反射的に懐から銃を取り出して、アキナガの剣を撃った。銃弾は寸分違わず剣に命中してアキナガの手から弾き飛ばした。
発砲と同時にササメは動いた。半ばタックルするような勢いでナツギリに突進し、彼の体もろとも部屋を、ハルミの家を出る。
「てめえ、何しやがる!」
ナツギリは抵抗するが、毒が体に回っているのかササメでも抑えられる程の力しか出ないようだ。
宿への道筋は分からないが、とりあえず広い道に出なければならない。ナツギリを無理やり押しながら、ササメは路地を駆けた。
* * *
見覚えのある道に出られたのも、宿に帰る事が出来たのも、奇跡としか言いようがない。自室にナツギリも押し込んで、ありあわせの道具で手当てを始めていく。
「……てめえ、どう落とし前つけてくれるんだ? ああ?」
ナツギリは戦闘中の恍惚とした表情から一転して、眉間にしわを寄せてササメを睨んでいる。ササメの治療も拒み、血を垂れ流したまま鬼の形相で睨み続けられると、流石に生きた心地がしない。
「あのままだと、ナツギリさん死んでましたよ」
「それがどうした」
「どうした、って……死ぬんですよ?」
野蛮な傭兵もどきの荒くれと見せかけて、まさか自殺志願者なのか?
「全力で戦って、競り負けて死ぬならそれでいいだろ」
「馬鹿ですか?」
「ああ?」
「すいません何でもないです」
当たり前のように死を受け入れている、目の前の人物がまるで理解できない。途方もない馬鹿だ。
「……この怪我は三日分のメシと宿代。じゃあ、この不満は誰が責任を取る?」
ナツギリはぎろりとササメを睨む。
「あ、あの、僕は戦うのは苦手で」
「てめえじゃ暇潰しにもならねえよ」
じゃあどうしろと、と言いかけたササメの頭をナツギリは鷲掴みにする。
「てめえが用事を済ませて帰る前に、代わりの獲物を紹介しろ」
さもないと殺す。ナツギリの右手がササメの頭を軽く締める。もう少し力を籠めれば、ササメの頭は潰れたトマトのようになるだろう。
「分かったか?」
「は、ははは、はい」
震える声で答えると、ナツギリは「よし」とササメの頭を解放した。そして立ち上がってあっという間に部屋を去った。
「……はあ……」
獲物を紹介しろとは無茶を言う。探し回って仮に見つけたところで、その獲物にササメが狩られるオチが目に見える。
右手の指先に巻いた包帯を見る。爪を剥がされた場合の処置なんて学んでいない。これで合っているのか心配だが、ガーゼと包帯を巻く事しかできなかった。
「……我ながら、よく生きてるな……」
危険な人々と出会い、あちこちに怪我はしている。それでも今こうして生きているのは、改めて考えると不思議だ。運が良いにも程がある。
己の命と幸運を噛みしめていると、ササメの頭にふと考えがよぎる。
――この運がある間に、街を出た方が良いのではないのだろうか。
調査を放棄して王都に帰ると「調査もこなせない木偶の坊」と学者としての評価は地に落ちる。安定した生活への最も確実な道が断たれる事になる。それどころか、学者として活躍できるのかも怪しい。
長年の支えであった「先生のような学者になる」と言う夢が断たれる可能性は高いが、死ぬよりはましだ。
「……生きたい」
ササメは自身の言葉を心の内で反芻しながら、右手の痛みを我慢してベッドに潜り込んだ。