Rebirth [2]
そしてゼロが生まれた。
初めて見たものは気が遠くなるほど高い天井。
円形の塔の内周に沿うように螺旋の通路が作られており、通路には本棚が隙間なく並べられており、本棚には辞書のような本が隙間なく並べられている。
塔には本棚以外何も無い。
空気はひんやりと冷たく、深く息を吸うと澄んだ空気が肺を満たした。
首をめぐらせると背後に大きな扉があった。
きっとそこから外へ出られるのだろう。
少し外を見てみようか。
生まれて初めて二本の足で立ち上がる。
ニ、三歩も歩かないうちに転んだ。
外見は大人でも、実際は幼児に限りなく近いのだから当然である。
はいつくばるようにして扉に近づき、手で触れてみる。
外側から閂が掛けられているらしく、開きそうもない。
扉を開けることは諦めて再び塔の中を見回した。
ここから反対側から螺旋通路が始まっていた。
螺旋通路はゆるやかに上へ上へと続いており、天辺は見えない。
他にすることもないので、通路を登ってみることにした。
通路は階段ではなく滑らかな坂になっていた。
歩くこともおぼつかないゼロにとってはありがたかった。
腕力を頼りに坂を上っていく。
静かな世界の中で、ゼロが這いずる音だけが響く。
* * *
やがて最初の本棚の元にたどり着いた。
その頃には、常人より遥かに高い体力を持つはずのゼロの息もかなり上がっていた。
少し息を整え、座ったままでその本棚を見上げた。
本棚はゼロの身長よりも高く、そこに詰まっている本は一冊一冊がゼロが両手で抱えなければならないほど大きい。
ふと進行方向を見てみると、先にはずっと本棚が続いていた。どの本棚にも同じような本が詰まっている。
改めて最初の本棚を見上げる。
少し興味が沸き、本棚に向かって軽く手をかざした。
呼吸と同じような感覚でゼロは「能力」を発揮した。
すると一冊の本が音もなく本棚から離れ、ゼロの手に収まった。
やけに重い本を床に置き、ゼロは軽く息を吐いた。
「能力」を使ったことに対する感慨は欠片もなかった。
本の表紙をめくり、そこに描かれていたものにゼロは戸惑った。
わけのわからない記号のようなものが全ページに渡って描かれているのだ。
記号の傍には同じような絵が全ページに描かれている。よく見るとページ毎に少しずつ絵が違う。
この本は文字を教えるための教材で、絵は発音の仕方を描いているものだったがゼロには分かるはずもなかった。
ゼロはしばらくの間最初のページに描かれているものを睨んでいたが、いくら考えてもわからない。
一旦思考を中断してぱらぱらとページをめくる。
裏表紙までたどり着き、ゼロは本を元の場所に戻そうとした。
と、そこで裏表紙に埋め込まれているものに目が留まった。
裏表紙の中央に黒いビー球のようなものが埋め込まれている。
黒い球はその内側でうねるような輝きを発しており、美しさよりまがまがしさのほうが勝っていた。
不思議に思ってビー球に手をかざしてみる。
するとビー球から一条の閃光が起こり、閃光の中に人影のようなものが現れた。
人影はおぼろげなもので、人間の形をしていること以外は何も分からない。
人影の口にあたる部分がもぞもぞと動き、それと同時にゼロの頭の中に声が響いた。
――こんにちは。
言葉を知らないゼロにとって、それは無意味な音の連なりだった。
どうしていいか分からないので何もしないでいると、人影は同じ言葉を繰り返した。
――こんにちは。
「……こ……?」
音を真似てみようとするがうまくいかない。
人影はそんなゼロの様子を察してか、よりゆっくりと繰り返す。
――こ、ん、に、ち、は。
「こ、ん……」
一生懸命に初めての言葉を紡ぐ。
「に、ち、は」
できた。
ゼロは思わず笑みをこぼした。人影も笑ったように見えた。
「こんにちは、こんにちは」
何故だろう。声を出すことがすごく嬉しい。
ゼロは言葉の意味もわからずに「こんにちは」を繰り返した。
人影が軽く手を挙げた。
ゼロも手を挙げてみた。何故だか真似をするのが楽しくてたまらない。
するとゼロが持っていた本のページが勝手にぱらぱらとめくれた。
ページは「こ」と書かれたところで一旦止まり、まためくれて「ん」で止まり、次は「に」、「ち」、「は」と止まっていった。
ゼロが首をかしげていると再び「こ」から止まりはじめた。
「……こんにちは?」
人影に問いかけてみると、人影がかすかに頷いたような気がした。
改めて本に目を落とす。ページは相変わらず勝手にめくれている。
少し考えて、これらのページに書かれている一連の記号は「こんにちは」を表しているのだろうと推測した。
ゼロは勝手にめくれるページを止めて、自分でページをめくる。
こ、ん、に、ち、は、の順にページをめくって、
「こんにちは?」
と人影に問いかけてみる。
人影ははっきりと頷いた。
こうして、ゼロは初めて言葉を覚えた。
その後も人影による教授は続き、あっという間に文字とその読み方を覚えた。
最初の本には文字の読み方しか書いていなかったため、本を元の場所に戻し、本棚から新たに本を取り出した。
それをめくってみると最初のページには「ほん」という文字と今ゼロが持っているものによく似た絵が描かれていた。
何気なく裏表紙を見てみると、やはり黒いビー球が埋め込まれていた。
少しの期待を込めて手をかざしてみるとやはり一条の閃光が起こる。
「こんにちは」
再び現れた人影にゼロは嬉しさを覚えた。
* * *
どの本にも黒いビー球は埋め込まれており、ゼロが手をかざすとどのビー球からも人影が現れた。
人影はその本の内容を読み上げ、ゼロがそれを復唱する。
ゼロが本の内容を完璧に理解するまでそれが続き、その本の全ての内容を理解すると人影は掻き消えた。
ゼロは人影に会いたい一心で次の本を開き、人影は本の内容を読み上げ――といった調子でゼロの知識は急速に増えていった。
そして数年が経った頃、ゼロはついに最後の本棚の最後の本に手をかけた。
その頃になると生きていくのに不自由しない程度の知識を身につけていた。
最後の本を開くと、その本の奇妙さにゼロは眉をひそめた。
どのページにも何も書かれていないのだ。延々と続く白紙。
不安に思って裏表紙を見てみると、そこには白いビー球が埋め込まれていた。
白い球はその内側でまっすぐな輝きを発しており、まがまがしさより美しさのほうが勝っていた。
不安に思ってビー球に手をかざしてみる。
するとビー球から一条の閃光が起こり、閃光の中に人影が現れた。
それは今までのおぼろげなものとは違う、姿かたちがはっきりわかる影だった。
ゼロの頭の中に声が響く。いつもの声と違う、優しげな女性の声。
――長い間、あなたを待っていました。
影は光に照らされ、その姿を露にした。
美しい女性だった。
白い髪は風も無いのにさらさらとなびき、赤い瞳は引き込まれるような輝きを帯びている。
華奢な体型にまとう純白のドレスがその美しさをより引き立たせていた。
――私は光でも闇でもない、「無」に属する存在でした。
口をほとんど動かさずに喋るその様子はゼロにはかなさを感じさせた。
――全ての生物は光か闇、いずれかに属する。そんな世の中で私の存在は異常でした。
「……じゃあ、私も、異常?」
ゼロは自分が「無」に属するということに薄々感づいていた。
光でも、闇でもない。ならばきっと自分は「無」に属するのだ、と。
女性はそれには答えず、小さく微笑んだ。
そして自分の話を始めた。
* * *
――無として生まれた私は、生まれた時から存在することを許されませんでした。
光の者、闇の者、両方が私を殺そうとしていました。
私は自分を守るために数多の命を殺めました。
やがて光の者も闇の者も自分達の力では私を殺すことはできないと気づき、両者は私を殺すために手を取り合いました。
それぞれが知恵を出し合い、ある大掛かりな作戦を実行しました。
広い宇宙の辺境にある小さな星。そこにはその星の半分を覆うほどの巨大な樹がありました。
彼らはその樹を利用して、全く新しい生命を作り出そうとしたのです。
実力が拮抗する光と闇が、そのエネルギーの全てをその樹に注ぎ、樹に命を宿らせました。
光と闇は樹に注がれる際に互いに打ち消しあい、宿った命は光でも闇でもない、「無」のエネルギーを持っていると彼らは確信していました。
そしてその「無」のエネルギーこそ私を殺すには必要不可欠なものだ、とも。
やがてその樹に大きな実が一つなり、その実の中から一人の人間が成熟した姿で生まれました。
その人間は紛れもない「無」のエネルギーを持っていました。
彼らはたいそう喜び、その人間に「星の戦士」という名を付け、武器と乗り物を与えました。
彼らは星の戦士に「私達のバランスを保つため、この樹から生まれていない無を司る存在を殺せ」と命令し、星の戦士は生まれた直後だということを感じさせないしっかりした足取りで乗り物に乗って宇宙へ飛び立ちました。
その全てを見ていた私は、その星の戦士を一目見て、彼に負けることを直感しました。
しかし、私は死にたくありません。私が存在する理由をまだ見つけていないのです。
なので私は一つの決断を下しました。
私がいた星には、ちょうど文明も人間もいませんでした。
私は手ごろな広さの平野に塔を建て、ゼロから学ぶために必要な本を揃えました。
本だけでは不安なので私の像と言葉を写しこんだ珠も用意しました。
すでに察しがついていると思いますが、この塔こそ今私が話している塔なのです。
星の戦士にはこの塔の存在を気づかれたくなかったので、星を移して私は待ちました。
その間、私はある術を私の体にかけました。
それは私が死んだとき、私の魂を二つに分け、それぞれ別の存在として転生させる術です。
転生した魂は不完全な魂なので、どこかが欠けている存在になったかと思います。
そして欠けている存在だからこそ、自分が求める存在を感知できるのではないでしょうか。
私はその考えに期待して、この術を使いました。
この術を使えば、転生してもしばらくの間は星の戦士の目を眩ませることができるかもしれない。
生き物として生まれた瞬間と「無」として生まれ変わった瞬間の時間差。
その時間差に星の戦士が戸惑っている間に、少なくとも私と同等の力を取り戻す。
やがて星の戦士がやってきても、また殺されずに済むように。
……もちろん、私の直感が外れて星の戦士に勝利すればそれが一番良い結末です。
しかしここでこうやってあなたが私の言葉を聴いているということは、私は星の戦士に敗れて殺されたのでしょう。
そして私の術が成功し、無事生まれ変わって星の戦士の目を眩ませることができたのでしょう。
今、あなたは私と同等……いえ、それ以上の力を得ています。
どうかその力を上手く使って私の二の舞にならないように、気をつけてください。
どうか、私やあなたが存在する理由を見つけてください。
* * *
語り終えて、女性は長いため息をついた。
そしてそれと同時に女性の姿が急にぶれ始めた。
――もう、あなたに伝えることはありません。
女性の足元がぶれながら消えていく。
何故かゼロの心が悲しみにはりさけそうだった。
――どうか、あなたが幸せでいられますように。
胴体が、消えていく。
――どうか、この世界が幸せでいられますように。
どこかで聞いたことがある言葉だったが、ゼロは思い出せなかった。
女性は最後に微笑みだけを残して、完全に消えた。
女性が消えてもゼロはなかなかそこから動こうとしなかった。
やっと本を元の棚に戻した後も、その本棚の前から動かなかった。
この塔の役目は終わった。もうここから出て外の世界に出るべきだ。
頭では分かっていたが心はそれを拒絶していた。
ここは、あの女性が作ってくれた唯一の心休まる場所なのだ。
何か事件でも起こらない限り自分はここから出て行かないだろう。そう確信していた。
* * *
それから大した時も空かずに「事件」はやってきた。
ある人間が外の閂を外し、塔の中に入ってきたのだ。
ゼロが塔の最上層から入り口の方を見やると――
――無のエネルギーを持つ人間二人が、そこにいた。